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2007年01月24日
文科省のいじめ定義改訂???
文科省が『いじめ』の定義を見直したそうだ。
しかし、これは何の問題解決にもならないばかりか、事態をますます悪化させる可能性すらある、と言わざるを得ない。
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「仲間外れ」はいじめ、文科省が定義を見直し (読売新聞YOMIURI ONLINE)
文部科学省は19日、いじめの定義を見直すと発表した。
「判断は、いじめられた児童生徒の立場に立って行う」ことを強調し、「仲間外れ」や「集団による無視」などの具体的な行為を初めて盛り込んだ。
新たないじめの定義は、「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とした。
現行の定義は、〈1〉自分より弱い者に対して一方的に〈2〉身体的・心理的な攻撃を継続的に加え〈3〉相手が深刻な苦痛を感じている――としている。しかし、自治体によってとらえ方が様々だったため、新定義では「継続的に」「深刻な」などの文言は削除した。
(以降略)
●被害者をなんとかしなければならないという立場は理解できるのだが、しかし、この定義では『本人が「いじめられた」と感じれば、それは「いじめ」である』ということなる。これはおかしくないか?
極論すれば(当人の言動がどうであれ、まわりがどうであれ)、本人が嫌な思いをすれば何でもかんでも「いじめ」=悪ということになってしまう。これは「人権ファシズム」と同じ構造ではないか?
こうした観念が蔓延するとどうなるか?
以下の2つの投稿を読んで頂きたい。
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「いじめは良くない」だけを言い続けると、いじめが増える?!
間違っている人を怒鳴ったら、それはいじめ?
自己中な人を仲間はずれにしたら、それはいじめ?
嫌いな人を無視したら、それはいじめ?
機嫌が悪いときに冷たくあたったら、それはいじめ?
何が間違ってて、誰が自己中なのか。
いじめている人も、いじめられている人も、見ている人も、注意する人も、基準はバラバラ。
そこがバラバラのまま「いじめは良くない」と叫ぶとどうなるか。
●いじめは良くない。
↓
●でも実は誰も、何が良くて何が悪いのか、
どっちが間違っててどっちが正しいのか、よく分からない。
↓
●自信がない。
変なことすれば、逆に自分が問題にされるかも。
↓
●出来るだけ関わらないでおこう。
みんなに合わせておこう。
↓
●無法地帯
↓
●やりたい放題
↓
●いじめも犯罪も自己中も、どんどん増える!!
—————————————————————
あらゆる圧力を排除する個人主義
近年学校現場では我々の世代ではあまり聞かなかった言葉が教育されているようだ。
「相手の気持ちを考えなさい」「自分がされて嫌なことは相手にしないように」。一見もっともらしい言葉である。
しかしよく考えれば、これらの言葉は実に危険であることに気が付いた。一方で相手への配慮を呼びかけると同時に、何であれ相手に不快を与えること=相手に踏み込むことをや圧力をかける事にブレーキをかける言葉でもあるからだ。
実際若い世代の話を聞くと、これらの言葉群は、何かを嫌がっている子供に対して、例えそれがいかに自己中心的なものであっても「そんな、その子の気持ちも分かってあげなければ」という形でその子への圧力を排除する役割を果たしている事例が多い。
収束不全が進行する中、取り分け’90年以降学校現場では観念支配が強まっていく。その中核観念が個人主義である。その中でもとりわけ個人主義の派生物たる人権観念は「個人の幸福」を最高価値とする観念である。そうであるが故に「個人に不快」なものをとことん排除していく。今学校で語られている上記の観念群は、一見本源風を装いながらも、実はこの個人主義思想をベースとしているが故に、この様に単なる圧力の封印装置に摩り替わるのである。
しかし、’70年以降、社会的に生存圧力は衰弱するばかりで、共認圧力こそが唯一の圧力源へと変化している。
その中にあってこれらの観念群は明らかに、その最も重要な共認圧力を排除する役割を果たしている。その結果、本来まともな人間に育てていく任務を持つはずの学校が、旧観念支配によって、逆に無圧力空間を自ら創り出し、「自己中」の生産に荷担する場と成り果てつつあるのだ。
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●個人主義、人権主義に基づく観念をふりかざすことは、自己中再生産→人間関係(集団や社会)の破壊行為につながる。
●今必要なことは、何が間違っていて、何が正しいのか、それを「人類の摂理」に照らして解明し、共認してゆくことである(=子どもたちに教えるべきこと)。
iwai
投稿者 staff : 2007年01月24日 TweetList
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コメント
投稿者 クリリン
クリリンさん、コメントありがとうございます。
> イジメらしきが見受けられたら、何が問題か?何がみんなにとって正しいのか間違いなのか?どうしたらいいのか?
こうした時に大事なのは、感情論ではなく、「事実の追求」!
投稿者 iwai
うん!そうおもうよ。
投稿者 匿名
不祥事を起こした幹部を追い詰めてもいじめ?近所で陰湿な悪口を叩いて平和な空気を乱してるおばさんをみんなで無視してもいじめ
?相手が悪くて自滅するのは自業自得なのにこちら側が相対主義的に半分譲るべきだのか?これじゃ味噌も糞も一緒だな。戦後の悪平等教育が成功したな。結局、ずるい奴が得する世の中になってしまった。
投稿者 f22
>文科省が『いじめ』の定義を見直したそうだ。
定義して仕事をしているとでも言いたいのか?
文科省は!!!!!
トンマ省と改名してはどうか?
>●今必要なことは、何が間違っていて、何が正しいのか、それを「人類の摂理」に照らして解明し、共認してゆくことである(=子どもたちに教えるべきこと)。
このコメントの方がよっぽど可能性を感じる。
イジメらしきが見受けられたら、何が問題か?何がみんなにとって正しいのか間違いなのか?どうしたらいいのか?
みんなで話し合って、取り組んでいくことの大切さや可能性、その方法を教えていく。ってか一緒にやっていく。
これが教育現場に必要な指針ではないでしょうか?