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2006年12月06日
「いじめ問題」・・・どうする?
今日は、11/21のエントリー「いじめの現状とこども達の可能性」 に引き続き、「いじめ問題」に関する類塾ネット、るいネットの投稿を紹介します。
続きの前に、クリック
■「いじめは良くない」だけを言い続けると、いじめが増える?!
間違っている人を怒鳴ったら、それはいじめ?
自己中な人を仲間はずれにしたら、それはいじめ?
嫌いな人を無視したら、それはいじめ?
機嫌が悪いときに冷たくあたったら、それはいじめ?
・・・つづき
■いじめ
学校で、いま登校拒否をしている人がいます。
その人は、小学校では、自分より上の人がいないので
いじめられることがなかったのですが、
中学校では、他の学校からの人にも同じようにしたようです。
・・・つづき
■自己中も、いじめも、なくすには?
「自己中はよくない」これは正常な感覚だと思います。
「いじめはよくない」この気持ちもよく分かります。
・・・つづき
■<真相>いじめ問題<その実態とは>
最近かなり有名になってきているいじめの問題です。
今回はそのいじめの被害者・加害者・傍観者の3箇所から見てみたいと思います。
・・・つづき
■いじめ問題 自己中なのは、誰?
>いじめは傍観者の行動によりすべてがゆだねられていると言っても過言ではありません。
なるほど~!と思いました。とても分かりやすいですね~♪読んだ後、「傍観者が、いじめている側につくか?いじめられている側につくか?は一体、何によって決まっているのか?」が、気になりました。
・・・つづき
■自己中を自己中で攻撃するのが「いじめ」では?
いじめに関するみんなの投稿を読んでみると、いじめの発端は、ある人のちょっとした自己中な態度や発言がきっかけみたいですね。しかし、なぜいじめる側は「あなたのとった行動は自己中だから良くないよ」と言ってあげずに、「仲間はずれ」などの陰湿な方法をとるのでしょう?
・・・つづき
■いじめに悩む人たちへ
>共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。こうして、不全感に苛まれ本能が混濁したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共感充足へと収束することによって、はじめて意識を統合することができた。(実現論1_4_05)
実現論のこの部分・・・いじめに悩む人たちに是非聞いてもらいたい。
・・・つづき
■過激ないじめ報道が学級崩壊させる
中学生だった頃、隣のクラスにお調子者の男子学生がいた。
彼はいつもみんなにからかわれていたが、ムードメーカーでもあった。
ある時「大河内清隆君という男子中学生が、いじめを苦に自殺した」という報道が、連日に渡ってなされた。
・・・つづき
■“いじめをなくそう”ではなく“いじめに代る課題を”
福岡の「いじめ自殺問題」を契機に、“いじめ”がまたクローズアップされている。相変わらず大人たちからは“いじめをなくそう”という発想しか出てこない。
・・・つづき
iwai
投稿者 staff : 2006年12月06日 TweetList
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コメント
投稿者 茂
茂さん、はじめまして。
茂さんは「○○主義」という枠組みにはめ込む思考がベースとなっているようですが、既存の状況、あるいは次代を読む上で「○○主義」といった近代思想の枠組みに全てを押し込めようとする考え方自体が古いと思いませんか?
人類史=近代史な訳ではなく、500万年の長い歴史、もっと言えば地球上での生命誕生から40億年以上もの歴史の積み重ねの過程に人類もいる訳で、その経過をたった200年程度の歴史の枠に押し込めて考察する事は非常に危険だと思いますが。
むしろ、「○○主義」なんていう古臭い思想に絡め取られていない子供達の意識状況から、素直に学ぶ姿勢を持つ事の方が、次代を読み解く上での可能性ははるかに高まると思いませんか?
投稿者 かわい
ざっとだけ、ブログの投稿を読みました。
いじめが増えてきたのは、相手としっかり向き合えていないから傷つく言葉も行動もできるんじゃないかと感じました。
きれい事を言うつもりはありませんし、できた人間でもありません。
ただ、私の言う、相手としっかり向き合うというのは目をみて互いの気持ちを伝えあう。どうして、こう思ったのかを伝えあい、逃げないという意味です。
傷つけてしまう言葉を言ってしまったとしても、向き合っていれば、時間がたって成長したときに分かることができるかもしれません。
心のどこかで、自分たち(生徒)の問題なのだから大人(先生)には言わない。相談しない。バレなければ何をしてもいい。なんて、感情を教えているのは大人。
家にいる大人(親や兄弟)に答えをもとめようとしない。答えをもとめるという期待もできないんだと思います。
無表情が増えたのも、まわりに期待して傷ついたことがあるから期待して応えてくれないんじゃにかと不安になる。
不安になるくらいなら、期待しないほうがいいんじゃないか。
傷つくということに臆病になりすぎて、その先にある大切な何かを見えていない。
人って、赤ちゃんのころ、みんな自分のことしか考えられない。自分の気持ちをどう伝えるかに必死でまわりが見えない。
いつしか、人と関わってどう人と交わっていくのかを学んでいくんだと思います。
自己中な人は、相手にどう伝えたほうがいいのか分からないんだと思う。
両親共働きで家に誰もいなくて、一人ぼっちでいるしかないとか。
過保護すぎて、自分の感情をどの程度伝えていいのか、どう伝えたほうがいいのか。加減が分からない。みんなに愛されてないと感じて、不安がつのってトゲのある言い方になってしまうとか。
まわりの大人(親か兄弟)から、教えていたのがえられてない。成長して自己中じゃない人も、まわりが育ててくれたから。
「自己中をかえるには、どうする?」
が、
「いじめをどうする?」
につながるところがあるのかもしれないと思いました。
投稿者 新山 砂名
新山さん、コメントありがとうございます!
「相手としっかり向き合えていない」のは子どもたちだけでなく、大人もそうですよね。
↓
人類の本性は共同性にある
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=128695
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=128696
このこと(共同性)が分かっていないと、自己中もいじめも変えていけないんだと思います。
投稿者 iwai
たびたび、投稿させていただいています。
今回は、松戸露店での勉強会でまとまったことを書かせてもらいます。
■いじめ問題どうして起こる?
現状。
学校という密室空間、または会社の部署という密室空間いる。
↓
そこで受ける評価がすべて。
空間の中ボス的な存在の評価が、密室空間にいるすべての人間の評価に変わる。
↓
評価が固定され、「いじめ」という行動をするする動機が「みんなのため」「みんなが思っているのだから、してもいい」という理由の正当化。
↓
なのに、「いじめ」を受けている人は、その空間のみんなに受けいれられたい。
なんとか受け入れられたい。
↓
大人に言われずに悪化していく。
■どうすれば、なくなっていくのか。
一人にいるわけではいかなくて、縛られている。二つの方法がとれる。
1)その空間にいる他者を否定する。
2)仲間をつなぐ課題をしていく。
可能性があるのは、(2)のほう。
だとすれば、どうすればいいのか?
もともと、みんなで協力していく習慣があるのなら、その「力」の方向を「人のためになる何か」でつなぐ。
↓
「認識仲間」にかえていく…。
iwaiさん、私もそう思います。
どの問題もたどりつくのは、共同性だとつくづく実感しました。
投稿者 新山 砂名
新山さん、ふたたびのコメントありがとうございます!
松戸の勉強会でもかなり深く追求しているようですね。
「密室(or人工的空間)→無圧力」というのはひとつ重要なキーワードです。学校もそうですが、家庭もしかり(・・・家庭でのいじめ≒虐待など)。企業でも無圧力→闘っていないところでは、陰湿ないじめが横行したりするようですし。
無圧力→評価or共認内容が歪んでしまう(自我や力関係に流される)という問題があると思います。
またコメントくださいね。
投稿者 iwai
このブログをざっと観ただけでもはっきりとわかるように
日本は集団主義、もっと言えば全体主義といっても大げさではない状態です。
そんな中で平等主義を取り入れれば集団が機能するわけがありません。