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2006年12月07日
教育バウチャーって何!? 2
安倍政権の教育改革の目玉の一つである教育バウチャーについて調べてみました。
(例)【埼玉県のバウチャー制度】
とあるように、バウチャーは、教育機関を選べ得ないほど貧困な層への経済的な支援=選択権の付与のようです。
公立学校の荒廃で思い起こされるのは70年代の「校内暴力」です(「金八先生」が80年)。その後90年代に入って、バブル崩壊とともに「学級崩壊」が問題化し、比較的裕福な人々はこぞって「公立離れ」を敢行しました。実は日本では「バウチャー」以前に公立学校は既に評価を得られずとっくに存在の危機を迎えていたのです。ここで、私立学校に通える補助金として「バウチャー」を導入すれば公立学校はひとたまりも無いでしょう。追い込まれた公立学校は私立に対抗すべく荒廃や劣化を自ら改めるようになるだろうという目論見です。
本当にそうなんでしょうか?
ここで補足すべきは、バウチャーが、生徒が公立に通う場合にも有効であることでしょう。しかし、このことが「だから公立も頑張れば良い」というのは短絡でしかありません。そもそも公立が私立に勝る魅力(評価に耐え得る存在基盤)を持たなければならないことは、バウチャー以前に既に存在しているのです。
私立に対して費用が掛からない公立は、教育水準が同じなら、私立以上の魅力を既に有していたはずです。しかし公立のもつ「経費」というアドバンテージに対して、私立学校はそもそもからそうした「評価」を存在基盤にして闘って来ました。実際には「評価競争」に勝つために、進学実績と入試によるふるい落としを最大限に活用して、扱いやすく伸び易い生徒を集め公立のような荒廃から逃れてきたに過ぎません。一方公教育は、経費ではない評価への何らの基盤を長く持たなかったことで劣化を招き荒廃へ至ったと言えるでしょう。
最も危惧されることは、学校(公立も私立も)が、戦後のアメリカ支配の結果、個人主義の巣窟と化した密室家庭の補完機関でしかないことで、何の評価も受けない密室家庭の住人が気まぐれな神様のごとく教育機関を「評価」することです。そうした教育機関への評価の軸が相変わらず自らの幸福などといった前時代的な価値観であれば、「バウチャー」による格差の危惧もあながち的外れではなかろうとも思います。こうした危惧の根拠は、教育機関への評価の中心軸が個人主義的学歴優位でしかなかったことです。
現在の教育に必要なことは、バウチャーなどの評価権や「見返り」を強化することではなく、そもそもの評価軸の転換なのだろうと思います。学校が既に個人の幸福を目標とする時代は終わりました。ましてや教育の元凶が聖域と化した密室家庭だとすれば、改めて集団性や対象性を獲得できるような教育の中身を創り出さねばならないと思います。人々のまっとうな評価のためには明確な評価軸が必要であり、その為に必要なことは、互いに議論したり生々しく評価したりできる仕組みです。その結果として起こり得る選択は、バウチャーなど用いなくても自然にそうなるのだとも言えるだろうと思います。