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2008年05月04日

学校ってどうなってるの?61~「音読」の効用②・・・音読・暗誦は“型”の文化

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写真は斎藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」 の表紙です。

前回は、明治期からの現象事実を元に、音読=みんな課題から、黙読=自分課題への転換について考えてみましたが、今回は、更に踏み込んで、「音読」を脳回路的な側面から考えてみたいと思います。

まずは、「下流志向」の著者である内田樹さんのブログ「内田樹の研究室」の「まず日本語を」より引用させて頂きます。

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私が提言するのは、ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うことである。「これはどういう意味か」とか「作者は何を言いたいのか」とか「この『それ』は何を指すか」とか、そんな瑣末なことはどうでもよい。名文には名文にしかないパワーがある。それに直接触れるだけで読み手の中の言語的な深層構造が揺り動かされ、震え、熱してくる。そして、論理的思考も、美的感動も、対話も、独創的なアイディアも、この震えるような言語感覚ぬきには存立しえないのである。
独創性は母国語運用能力に支えられるというと意外な顔をする人が多い。だが、創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず「次の単語」が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。母国語を話していながら、「次の単語」が出てこない人間、階層構造をもった複文が作れない人間はどのような知的創造ともついに無縁である他ない。

名文の音読、暗誦、筆写の繰り返しによって言語力が身に付き、創造力がつく・・・名文には名文にしかないパワーがある・・・ということで、同じ趣旨のことを「声に出して読みたい日本語」の斉藤孝さんも言ってますね。

また、「読書百篇自ら見わる」(どくしょやっぺんおのずからあらわる)という諺があるのですが、どんな難解で意味のわからない文章でも、百回読めば、自然と書かれている内容を理解するという意味です。
・・・赤ちゃんが言葉を憶える過程と同じですね。とにかく真似て話してみる・・・意味は自ずと後からついてくる。

この学習法は「素読」 とも言い、心を「素」、つまり白紙状態にして、声を出してひたすら繰り返して読むことで文章を脳裏に刻み付け、体で覚えていく もので、江戸時代の武士の子弟も、寺子屋でもこの学習法をとっていたようです。そして、当時の子供達は、漢字だらけの長文を暗記していました。( 「学校ってどうなってるの?53」 に当時の教科書の画像あり)

これは、2つの視点を含んでいると思います。

一つ目は、日本語力を身につけるなら、過去の優れた文章に同化し、“型”としてそれを身につける ということです。

上述の斉藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」にも・・・

日本語を体得するという観点からすると、子どもの頃に名文と出会い、それを覚え、身体に染み込ませることは、その後の人生に莫大なプラスの効果を与える。意味を解釈したとしても、暗誦できていないとすれば、その詩や名文の威力は半減してしまう。文章の意味はすぐにわからなくてもいい。長い人生のプロセスのなかで、ふと意味のわかる瞬間が訪れればいい。こうしたゆったりとした構えが、文化としての日本語を豊かにする。

暗誦文化は、型の文化である。型の文化は、強力な教育力を持っている。一度身につけてしまえば、生涯を支える力となる。日本語の感性を養うという観点から見れば、暗誦に優るものはない。最高のものを自分の身の内に染み込ませることによって、日本語の善し悪しが感覚としてわかるようになる。

とあるように、下手に意味を考える前に、名文に同化することで、長い過去の蓄積の末形成された日本語の持つ“型”そのものを体得するというものです。

その意味では、現在の教育は、こうした“同化”過程を軽視し、ただただ意味や解釈ばかり教え込む ものとなってしまっており、その根底には、「自分」で考え、「自分」で理解し、「自分」で判断するという個人主義 の存在を感じずにはいられません。

・・・つづく

投稿者 kota : 2008年05月04日 List   

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