| メイン |

2008年02月13日

学校ってどうなってるの?47~福沢諭吉が考えていたこと

1-1.jpg

福沢シリーズ第2弾です
明治5年になると、2月にあの有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり…」で始まる『学問のすゝめ』がついに刊行されました。
封建的な身分制度を否定し、学問の持つ有用性を平易な言葉で述べたこの本は、その後大ベストセラー・超ロングセラーとなりました。

さらに折しも明治5年8月には政府により学制が定められ、日本でも近代的な学校教育制度が発足した。彼の著した、『啓蒙手習之文』『訓蒙窮理図解』『世界国尽』『学問のすゝめ』『童蒙をしへ草』などが教科書として全国の小学校で広く使用されました。
特に『世界国尽』は各地の小学生が暗唱して歩いたという! 😯  

ではこのような時代の思想的リーダーであった福沢諭吉の時代認識はどうだったのでしょうか?
さらに彼の教育に対する考え方はどうだったのでしょうか? 🙂

福沢諭吉の興した事業として【慶応義塾】【時事新報】【交詢社】」があります。
この「交詢社」構想に彼の時代認識が読み取れると思います。
「慶応義塾」は教育、「時事新報」は新聞。そして「交詢社」は、福沢の提唱により明治13年に設立した日本で最初の「社交クラブ」と言われるが、創立時には必ずしもそのように特定できない【結社】であったようです。

当時は江戸時代までに形成されてきた政治制度のみならず社会生活や文化生活の行動様式(型)までが崩れゆく中で、文明を新たに造り出す激動の時代です。
個人から国家にいたるまでの急な「文明開化」の中、人々の精神の混沌の中から新たな社会・文化の型を造り上げるという課題に迫られていました。

最終的には教育勅語にみられるように天皇制という国家体制の枠によって解決が図られることになりますが、教育勅語制定以前、この課題の回答となる可能性を秘めた試みとして【交詢社】は設立されたといわれています。実は【慶應義塾】はこの結社の一つの実現態だったのです。

その考え方については設立宣言書で読み取れると思います。
この宣言書は『芝新銭座慶応義塾之記』と題され、創業と同時に出版されました。
それは以下の文章で始まります。
ここからは慶応義塾大学出版会の住田孝太郎氏の「近代日本の中の交洵社」の連載からの抜粋です。最初のくだりは第2回で後半は第6回のものです。http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/koujyunsya/vol3.html

「今ここに会社を立て義塾を創め、同志諸子相共に講究切磋し、以て洋学に従事するや事本と(もと)私に非ず。広くこれを世に公にし、士民ここでの「私」と「公」の使われ方をみると3点の特徴があるようだ。
①同志による共同体、「会社」の公共的機能の認識、
②洋学という学問に従事することが単なる私事ではないという主張、
③入社資格が身分ではなく「志」の有無にある、という3点である。

この「会社」という言葉は今日の我々が思い浮かべる企業の意味ではなく、自発的集団を指している。この言葉は、江戸時代に生まれた和製漢語だという(馬場宏二『会社という言葉』)。世界情勢を知るため、オランダ語の地理書が翻訳される中、company、corporationの訳語として生まれた。

19世紀半ばには幕府蕃書調所の蘭学者たちに共有されていたという。「学界・学芸集団」「同職、同志等特定階層の自発的集団」「広く仲間や集団」「今日の“社会”」の意味で使われたらしい。

・・・・中略・・・

彼の著した西洋事情の中に

「政治」「収税法」「国債」「紙幣」「商人会社」「外国交際」「兵制」「文学技術」「学校」「新聞紙」「文庫」(図書館)「病院」「貧院」「唖院」「盲院」「癩院」「痴児院」「博物館」「博覧会」「蒸気機関」「蒸気船」「蒸気車」「電信機」「瓦斯灯」

これらをみて、気づくのは「商人会社」「学校」「新聞紙」「病院」「「貧院」「唖院」「盲院」「癩院」「痴児院」という公共的な役割を担う団体が多くとり上げられていることである。いずれも福沢は「会社」「社中」と呼んでいる。
例えば学校であれば、
「学校は政府より建てて教師に給料を与えて人を教えしむるものあり、あるいは平人(民間人)にて社中を結び学校を建てて教授するものあり」
病院では、
「病院は貧人の病んで医薬を得ざる者のために設けるものなり。政府より建つるものあり、私に会社を結んで建つるものあり」
という具合に説明されている。
このような政府以外の公共的団体は、政府の「公」と対比して私的結社という。より広い意味では、人々の自発的な意志によってできる結社なので、自発的結社という。彼が「会社」「社中」と呼んだものはこの自発的結社であり、今日でいう企業とは異なる。慶応義塾の創業に際して、福沢はこうした西洋の自発的結社「会社」を参考にした。。

さらに専門分科への危機意識について【交洵社】の緒言という形でこう語られています。

現在が「分業に基づく時代である」ということからはじまっている。未開の時代には1人の人間がいくつもの職業を兼ねたり、1つの店が多くの品物を売っているものだが、時代が進むと人々に専門の務めができ、各家の生業ができる。分業と専門化が進むことで、職種の幅が広がって利益は大きくなり、そうなると一層分業化が進んでゆく。これが「現今世界の通勢」であるという。
しかし、人々が専門の仕事に従事するようになると専門外のことにうとくなるし、年齢や富の多寡、住む地方が異なれば人々の利害も異なる。こうなれば人々はうまく世をわたることがむずかしくなる。そこで、各業、各年齢、各地方の人を結んで互いの知識を交換し、補い合うことが現在に最も必要なことであるというようなことが、この「緒言」前半で分業社会への対処法として説かれている。

彼は3度にわたって西洋を訪問し、法律、制度をつぶさにみてきた。そこに学ぶという意識と裏腹に日本の共同体を壊していく【西洋思想】の存在を感じていたのではないか。日本独自の集団の有り様を見失ってはならないという危機感を感じていたのではないだろうか。

面白かったら押してみてください

続く

 にほんブログ村 子育てブログへ

交洵社はの社是は「知識交換世務諮詢」それを象徴する言葉として採用された。この提唱に、いかに人々が共鳴したかは発会当時の社員数、構成にも顕著に現れている。社員数1767名。その内訳は在京者639名、地方在住者1128名。社員の主な職業は官吏371名、学者365名、商281名、農123名、工12名、華族21名、府県会議員15名であり、未詳579名。

★参考までに明治13年1月25日の発会式で選ばれた常議員は以下の24名であった
福沢諭吉
小幡篤次郎
西周
早矢仕有的
藤田茂吉
矢野文雄
栗本鋤雲
箕作秋坪
菊池大麓
江木高遠
小泉信吉
馬場辰猪
石黒忠徳(悳)
中上川彦次郎
由利公正
荘田平五郎
箕浦勝人
熊谷武五郎
林正明
朝吹英二
肥田浜五郎
小野梓
岩崎小二郎
吉原重俊

これらの人物を是非ネットで調べてもらえればと思います。
三井財閥の中興の祖といわれた人や横浜正金銀行の支配人や日銀初代総裁や明治生命の創始者などがいます。当時の日本を支える政界財界の中心となった人々ばかりです。
みんな日本をどうにかしなければ、時代を統合していかなければという福沢の想いに賛同したのだと想います。

明治、大正、昭和の幾星霜を経て、今でも現在の交詢社は「社交クラブ」であり、厳しい入社審査を通った紳士が集まる閉鎖的な倶楽部となっています。

投稿者 tennsi21 : 2008年02月13日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2008/02/462.html/trackback

コメント

上の人々に長州勢が一人もいませんね・・・。因みに横浜正金銀行は、香港上海銀行をモデルに福沢、大熊が支援して作らせたそうです。そして香港上海銀行が東京支店を開設するまで日本の代理人を勤めていたのが、三菱だったそうです。一方三井は伊藤博文ら長州勢とべったり、天皇とも親しかったようで・・・。

なんかこの時代の覇権争いの様子が垣間見えるような気がします。

それと・・文中の四角囲みはどこかからの引用ですか?

投稿者 さいゆー : 2008年2月13日 22:32

慶応義塾大学出版会の住田孝太郎氏の「近代日本の中の交洵社」の連載からの抜粋です。
最初のくだりは第3回後半は第6回のものです。(http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/koujyunsya/vol3.html)
訂正しました。
福沢諭吉氏の孫のあたる福沢堅次氏は三菱ガス化学取締役で岩崎弥太郎の孫で三菱製紙の会長の岩崎綾子氏と婚姻関係にあり、以下三菱財閥との結びつきは強固になっていったようです。

投稿者 tennsi21 : 2008年2月13日 23:44

「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

投稿者 石垣眞人 : 2008年11月15日 14:44

コメントしてください