| メイン |

2008年02月12日

学校ってどうなってるの?46 明治時代ってどうなの?

%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC.bmp

明治時代の教育制度を見るに当たり左記に以下の視点を掲げました。学校ってどうなってるの?45~明治の教育・・・分析の視点

■「国家」として、欧米による掠奪闘争という外圧にいかに適応するか?
■国家戦略の背後に“金貸し”=国際金融資本の思惑
■共同体の解体→「家」制度へ
■「教育」の変遷と理念

今回はそのことを念頭に「明治時代ってどんなん?」っいうことを探ってみたいと思います。年表に明治の主だった出来事を纏めておきます。

 クリックお願いします。

 にほんブログ村 子育てブログへ

慶応4年 明治元年(1868年) 明治天皇即位により改元。三井、島田、小野は会計局為替方御用。政府の金融事務、為替会社の総頭取の地位を得る。

〔為替方〕為替(かわせ)とは、手形や小切手などによって現金貨幣を使わずに決済する方法です。当時の貨幣は各藩ごとの藩札や幕府発行の銀貨など、数種類の貨幣が出回っていて、いつでもどこでもお金が使える状態ではなかったようです。千円札をもっていても外国では買い物が出来ないのと同じです。そこで、お金を持っている人は信用の有る人の手形に変えて支払いに充てる手間が必要になります。この「信用の有る人」として手形を発行してしたのが、為替方と言うことになりますが、こうした金融事務の明治政府内で行なっていたのが、三井、島田、小野と言う民間の両替商・大商人たちです。島田、小野はその後衰退していきますが、三井は、三菱とともにグラバー商会と関係し銀行、商社と発展しきます。日本だけでなく、日本が台湾、朝鮮、満州と進出していくのに合わせて各地で事業を展開していきました。

〔政体書発布〕
当初明治政府は、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の三職で構成されていましたが、政体書を発布して、五箇条の御誓文を政府の基本方針とするとともに、国家の中央政府として太政官を置き、2名の輔相を首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれを議政官・行政官以下の五官・刑法官が掌る三権分立の体制ですが、実際の権力分立は不十分だったと言われています。

〔太政官布告で神仏分離令〕
同年、「神祇省を改組し、民部省社寺掛を併合する形で設置。神祇官内に設置された宣教使の神道と儒教を基本とした国民教導が失敗したことを受け、当時最大の宗教勢力であった仏教、特に浄土真宗の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれた。キリスト教の(半ば黙認という形での)禁制解除、社寺に於ける女人結界の解除など近代宗教政策を実施する一方で、神祇官が為し得なかった国民教化を実現する為に教導職制度を設け、三条教則による国民教化・大教宣布運動を行った。(略)しかしながら、当時新進であった神道勢力と旧来よりの勢力を保っていた浄土真宗との深刻な意見対立によって実績は揚がらぬまま」「また、近代的学校制度の整備によって宣教政策の目的が達成されるとの観点から、政府は教部省の存在自体を懐疑的に捉える結末となり」Wikipedia
 
明治の国民教育に宗教を活用しようとしたようである。
 
明治2年(1869年)戊辰戦争終了 版籍奉還 太政官は二官六省体制に 新聞紙印行条例『内容は廃藩置県、議院制度の提唱、開化思想の宣伝に力をそそぐなど一段の進歩を見たが、政府の内容についての干渉は厳しく、後に「新聞紙条例」、「讒謗律(ざんぼうりつ)」が公布され、新聞の取締りは強化された。』黎明期の新聞

明治4年(1871年)
廃藩置県。太政官制改正。「天皇が親臨・親裁形式で太政官以下を率い、三大臣がこれを輔弼して参議・卿を指揮する(従って参議以下には輔弼責任はなかった)という明治の太政官制の基本形式と薩長土肥出身者によるいわゆる藩閥の原点か確立したのである。」Wikipedia 

〔新貨条例〕
会計事務掛三岡平八によって戊辰戦争などの戦費充当のため大量に発行された太政官札が信用不安を引き起こして、三岡に変わって大隈重信が新通貨「円」を制定。

明治5年(1872年)学制発布 太陽暦採用 国立銀行条例;米ナショナルバンク制度を範に伊藤博文が建白
 
明治6年(1873年)徴兵令 地租改正 第一国立銀行設立。三井が出資。
徴兵令への反対の血税一揆が岡山で30万人が参加。福岡で 4500軒が焼失。壊されたものは学校29、役場43の他、電柱181本。新政府になってできたものを壊すという態度
 
〔明治六年政変〕
発端は西郷の朝鮮使節派遣問題。日本は李氏朝鮮に対して王政復古、開国を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで無かった「皇」や「勅」の字が有る、押印が違うなどとして朝鮮は受理を拒否。当時朝鮮は興宣大院君の政権で儒教復興と攘夷を国是にする政策で、これを理由に日本との関係断絶の意見が大きかった。日本大使館に相当する機関(倭館)入り口に「野蛮の国」と書かれるなどにより、日本政府内には武力行使も辞さないとの意見も。
 
西郷はそれを抑えまず自ら非武装で朝鮮に行き、談判後それでも決裂した場合、朝鮮の罪を明らかにし非を問うべきだと主張。西郷(薩)に賛同したのが板垣(土)、後藤(土)、江藤(肥)、副島(肥)ら。反対が大久保(薩)、岩倉(公家)、木戸(長)、伊藤(長)、大隈(肥)ら。この征韓論争は「征韓派対内治派」だけでなく薩長対土肥の藩閥主導権争い。
 
留守政府(土肥派)は岩倉使節団の外遊組帰国以前の8月17日、一度は閣議で西郷を朝鮮へ全権大使として派遣することが決まったが、翌日この案を上奏された明治天皇は「外遊組帰国までは決定しない」を基に岩倉帰国後に熟議した上で再度上奏するようにと西郷派遣案を却下。大久保は、西郷が朝鮮に行って殺されでもした場合、朝鮮、更には清、ロシアとの戦争になることを危惧、他の外交問題(清との琉球帰属問題(のちに台湾出兵)、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などや、費用問題などから反対=延期を主張。10月14日-15日閣議は、通らないなら辞任するとした西郷に伴い多くの薩摩出身官僚、軍人が政府から抜けることを恐れた議長の三条が即時派遣を決定。反対派の参議大久保、木戸、大隈、大木が辞表を提出、右大臣の岩倉も辞意を伝える。

更に明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐが、太政大臣の三条が倒れ太政大臣代理に就任した岩倉が閣議決定とは別に「私的」に派遣延期の意見書を提出。結局これが通り西郷派遣は無期延期となった。閣議決定が工作により覆された。
西郷、板垣、後藤、江藤、副島は翌日までに辞表を提出。賛成派参議5人が下野。参議と懇意の官僚も大量に辞職。更にその後西郷に対してのみ政府復帰を働きかけている事に憤慨して第2の大量辞任が起きた。この政変で大久保が政府の実権を掌握。後に江藤新平によって失脚させられていた山県と井上は西郷、江藤らの辞任後しばらくして公職に復帰。木戸も征韓論を否定しながら台湾出兵を決めた大久保の政治手法を不満として下野。大久保の独裁状態となり佐賀の乱、西南戦争や自由民権運動の発端となった。

森有礼の提唱で明六社が組織され,翌年『明六雑誌』を創刊した。西周・津田真道・中村正直・福沢諭吉・加藤弘之らが参加し,欧米の風習・思想を紹介していった。6 中央集権化の進展 -1874~1877年-

明治7年(1874年)板垣、後藤、江藤、副島が愛国公党を作り民撰議院設立建白書 

〔台湾出兵〕 
「宮古島の66人が台風にあい台湾南東岸に漂着したが、上陸した人のうち54人が牡丹社部落の原住民(パイワン族)に首を切られ殺される。(略)西郷従道陸軍中将(西郷隆盛の実弟)を台湾事蕃地務都督(遠征軍司令官)に、新設の台湾蕃地事務局の長官には大隈重信参議兼大蔵卿を、リゼンドルを同事務局准二等出士(副長官相当)に任命し(略)兵士3600名と軍艦を長崎に集結させた。さらに兵員・物資の輸送のため、イギリス汽船ヨークシャー号とアメリカ汽船ニューヨーク号をチャーターすることとした。しかし、台湾出兵に反対して木戸孝允が不満を表明、辞表を提出し(略)山県有朋陸軍卿や伊藤博文らも消極的態度を崩さなかった。その上、日本政府は外国人あるいは外国船の雇入れの交渉を進めていたが、これがうまくいかなかった。例えば、イギリス公使パークスはかねてから日清間に紛争がおきればイギリス資本の権益が侵されると警戒していたので、4月10日、寺島外務卿に対して清国政府が日本の台湾出兵を敵対行為と見なす場合はイギリス船およびイギリス人を呼び戻す旨申し入れ、これを知ったアメリカ公使ビンガムも(デ・ロングとの約束を反故にし)、4月18日、清国の了承がない限りアメリカ船およびアメリカ人の台湾従軍を差し止めると申し入れ、ロシアもロシア人やロシア船の従軍を禁止する布告を出し、スペインも局外中立宣言を出した。」
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/krjp/krjp11.html
「輸出入をになう海運業は,当初欧米資本がほぼ独占していたが,政府はそれに対抗して,岩崎弥太郎の三菱会社(郵便汽船三菱会社)に保護を与えた。三菱会社は台湾出兵・西南戦争の軍事輸送をにない,さらに長崎-上海間の定期航路に進出し,ついにはイギリス・アメリカの汽船会社を排除して上海航路を独占する。」6 中央集権化の進展 -1874~1877年-

 
明治8年(1875年)樺太・千島交換条約 新聞紙条例
明治9年(1876年)日朝修好条規(江華条約)国立銀行条例改正 地租改正に反対する大一揆が松阪で起きる。学校や役場を襲撃。愛知、岐阜、和歌山、大阪に飛び火。政府は西南戦争と連動するのを恐れて地租2.5%に引き下げ。
 
明治10年(1877年)西南戦争  教部省は浄土真宗の大教院離脱を経て廃止。

明治11年(1878年 )紀尾井坂の変;石川県士により大久保暗殺

明治13年(1880年) 
〔横浜正金銀行〕
福沢諭吉、大隈重信らが尽力して設置。背後に香港上海銀行。「貿易為替の取組比率は13年には合計で1%にも満たなかったが、20年には輸出為替40%、輸入為替6%、合計で25%を占め、金額では13年の約40倍に相当する2391万円にまで達した。正金の貿易為替取組比率は以降も順調に推移し、44年には輸出入両為替とも45%を占め、金額では4億3259万円を記録するまでにいたった。国際金融では、正金は日清戦争の賠償金受け取りと送金において中核として活躍した。また30年の金本位制確立によって同行の国際的地位が上昇したことをうけ、ロンドンの各銀行とコルレスを締結し国際金融のの中心に信用網を形成し、32年には外国為替銀行3行とシンジケートを組み、日本外債1000万ポンドの発行を成功させた。正金はこれ以降、日露戦争をはさみ40年までに総額1億4000万ポンドの外債発行を成功させている。正金はまた旧満州地方にも進出し、日露戦争を契機として店舗を拡大、35年には天津支店において初めて一覧手形(=銀行券)を発行している。」>「国立銀行」~東京三菱銀行と横浜正金銀行~

明治14年(1881年)
明治14年の政変、国会開設の詔勅出される。大隈重信失脚、大蔵卿松方正義による松方デフレへ。
明治15年(1882年)

〔日本銀行設立〕

「西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信は、このインフレの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、正貨である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官たる大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。この対立を憂慮した伊藤博文が松方を内務卿に抜擢するという形で財政部門から切り離して一旦は事態収拾を図った。ところが、1881年の「明治十四年の政変」で大隈が政府から追放されると、松方が大蔵卿に任命されてインフレ対策の責任者となる。
松方は不換紙幣を回収・焼却処分にし、1882年に日本銀行条例を公布して日本銀行を設立する。国内的に余裕があった銀貨に基づいた銀本位制を導入をめざして、「緊縮財政」を実施した。また、これに要する政府資金調達のために、政商への官営事業払い下げ、煙草税・酒造税などの増徴による歳入増加策、政府予算の縮小(軍事費を除く)行って、紙幣発行量を縮小していった。
この結果、 明治14年(1881年)度の紙幣発行高1.5億円に対し、正価(銀)の準備高が0.1億円(準備率8%) だったのに対し、明治18年(1885年)度には、紙幣発行高1.2億円に対し、正価(銀)準備高は0.45億円(準備率37%)まで恢復し、銀本位制導入への基礎が成った。同年には満を持して銀兌換紙幣(日本銀行初の発行紙幣、大黒図案)が発券され、銀本位制が導入された。また日清戦争の賠償金による金準備を元に、明治30年(1897年)には、松方念願の金本位制が導入されることになる。」Wikipedia

明治18年(1885年)内閣制度発足(初代内閣総理大臣に長州出身の伊藤博文)
明治22年(1889年)大日本帝国憲法発布
明治23年(1890年) 第1回衆議院総選挙、第1回帝国議会召集

明治27年(1894年) 日清戦争
明治28年(1895年)下関条約で日清戦争講和。清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲。
明治35年(1902年) 日英同盟
明治37年(1904年) 日露戦争
明治38年(1905年) ポーツマス条約で日露戦争講和。 東清鉄道の一部(後の南満州鉄道)、関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権他を獲得。

明治43年(1910年) 日韓併合。

以上並べてみましたが、上記のような歴史は、政治家や後に財閥と呼ばれる大商人のことであり、必ずしも庶民の意識とは一致しません。統合階級と呼ばれる人々のの上記のような動きは、これまた出来たばかりの新聞によって市民に伝えられたのでしょうけれど、「あれよ、あれよ」と言うだけで次々制度化される新しい貨幣や税金の制度、徴兵制度や学校の制度に対応しながら自らも稼ぎを得て食いつないで行くのに忙しい、と言った状況ではなかろうかと推測されます。

幕末の欧米列強による内政干渉や近代武力、資本の注入によってはじまった国家体制の大変革は、徳川家から長州閥へその中心を変えて、一気に「近代化」へと動きます。この近代化に対する評価は、その後の植民地戦争⇒敗戦⇒米国と言う新たな金融国家への隷属となり、国民の意識も共同体⇒個人主義へとなったことを大きく捉えると、必ずしもそれで良かったとは言い切れない部分もあるでしょう。

しかし、そのような統合階級の敷いた制度に何とかついていったであろう国民は、持ち前の勤勉さと集団性を発揮して目覚しい進化を遂げます。幕末期にはまったく歯が立たなかった欧米列強との武力闘争も、僅か3~40年で日露戦争を互角に戦うまでに成長します。そのことが新たな殖民地闘争へ駆り立てることになったのかもしれませんが、その優秀さは認めて良いのでないかと思います。

投稿者 saito : 2008年02月12日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2008/02/469.html/trackback

コメント

長すぎです。要約を願います。

投稿者 匿名 : 2008年2月12日 20:24

コメントしてください