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2007年10月23日

学校ってどうなってるの?27~お寺と寺子屋・8割を占める江戸時代の農民の教育~

江戸時代の教育機関は、大きく分けて藩校・私塾・寺子屋の3つといわれています。藩校・私塾は、幕府・藩の体制・統制下に置かれた教育機関で、民間運営の寺子屋とは、一線を画しています。
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さて、その寺子屋を運営していた方々はいったい誰だったのでしょうか?

『寺子屋教育に果たした僧侶の役割』というHPの中では、こう論じられています。

1】「日本教育史資料」8,9巻によると、身分欄は多彩で、僧、神官、修験者、浪人、武士、農業、工業、商業、医師、平民などがある。
2】寺子屋の多い愛知県では、寺子屋の経営者をみると尾張は、僧侶27%、平民25%、農業25%、神官9%、医者7%など。三河は僧侶34%、平民32%、農業19%、医者6%など。どこでも当初僧侶が多かったが、町中では経済が発展し新興商工業者が増えると僧侶に代わる経営者が出てきた。しかし農村部では僧侶が多い、浄土真宗では村単位にお寺を建てたということもあるだろう。
3】中世から始まった「講」とか寺子屋が今様に言えば地域のコミュニティーセンター、公民館のような役割を果たしていた。

と分析されています。結構、僧侶の割合が多いところがあります。

では、なんで、僧侶が布教活動以外に、読み・書き・算盤などを教え始めたのでしょうか?

それは、平安時代からの僧侶育成の為の教育・学習が発展したもの【参考:寺子屋は、いつできたの】と言われてるようですが、直接的には、寛永12年(1635)に江戸幕府が制定した寺請制度(=檀家制度)が影響しているようです。本来はキリシタンを防ぐ目的の制度であったこの制度は、寺の檀家がキリスト教徒ではないと寺が保証させる制度であった。もっと言えば、寺は今の市町村役場の住民課にあたり、戸籍・住民票・諸証明書を管理・発行する幕府の出先機関を作る制度であり、村の住人を、寺に収束させ、管理・支配するものでありました。お寺側としては、檀家を獲得でき、お布施を収奪できることから、確固たる制度として定着し、寺と村と藩その住人を結びつける役割をになっていたようですが、次第に、掠奪・行為が横行して、幕府が乗り出し、寛文5年(1665)、江戸幕府は『寺院法度』を決め、寺院僧侶の生活規範を改善しようと努めた。

この寺請制度が、寺に村の住人を収束させ、寺中心に村落がまとまり、かつての寺の教育制度と社会的、経済的な要請や藩・村全体の社会適応のための教育の要請や奉公のための教育要請があいまって、寺という地域コミュニティーから、僧侶などの知識階級が、読み・書き・算盤を教え始めたというのが、寺子屋の発祥の理由ではないか?と思われます。

そんな藩や村の期待に応える活動が、8割を超える教育を受けられない農民の能力アップと識字率アップに寄与してきたのだろうなぁと感じています。

もともと、読み書きなどは、お寺のお経を読み書くという歴史的要素と僧侶を目指す若者への学習機能的要素が存在していたのかも知れませんね。

しかし、良く考えてみると、村単位での規範・躾の学習以上に、観念教育が必要になったということのように思えますね。この頃は、まだ、寺子屋で教えていた内容と村単位で生活密着に密着して教えていた内容とでは明確に線は引けないようにも思えますが・・・

社会的外圧を受け、藩や村の集団単位の同類圧力から生まれた寺子屋に、本来の学校の原型を見るように思います。

【寺子屋の言語由来】
寺子屋なる言葉はいつから使われたか明確ではない。中世から子供が手習するときに、お寺に預けてお坊さんに躾教育をしてもらうのを「寺子」と言う。それがお寺でなく神社、庄屋、武士、医者などで手習するときも慣習上「寺子」と呼んだ。屋は経営・指導の母体の総称で、民間で手習するときの施設を寺子屋と言うようになった。

ということでした。

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●寺請制度出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

寺請制度(てらうけせいど)とは、近世初期に江戸幕府がキリスト教や不受不施派を禁制として、信徒に対し改宗を強制することを目的として制定された制度。「檀家制度」(だんかせいど、だんけせいど)とも言う。

具体的には、仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まった。一方、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うこととなった。仏教教団側が負った打撃は、「本末制度」との相乗効果により、上記にとどまらず、従来の教団活動の中で中心に位置していた門派・塔頭の機能を低下させることとなり、その勢力の拡張が困難になった。

●寺子屋出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

●《寺請制度ー(宗門改め制度)と神仏分離》

・寛永12年(1635)に江戸幕府が制定した寺請制度(てらうけせいど)は、本来はキリシタンを防ぐ目的の制度であった。それは寺の檀家がキリスト教徒ではないと、寺が保証させる制度であったが、次第に檀家を寺の都合の良い収奪相手として利用されるようになった。寺の伽藍建築や経営に強制的にお金を出させられたのである。

江戸時代の太平の世は、寺だけが、繁栄を謳歌する状況を造りだした。幕藩領主は藩内の民衆(百姓)が飢饉や災害に遭ったときは保護しなければならないのに、寺はそれらの手伝いをせず、簒奪だけをしているように見え始めたのである。

・寛文5年(1665)、江戸幕府は『寺院法度』を決め、寺院僧侶の生活規範を規正しようとはじめた。民衆から見ても華美におぼれ、仏教の教義や戒律を守り崇拝される僧侶とは見られなくなっていたのである。領主の立場から改革に手をつけたのが、水戸藩の徳川光圀である。テレビで有名な黄門様である。

●寺子屋教育に果たした僧侶の役割

●江戸の識字率

・江戸幕府はキリシタン禁制を徹底するため、天領・諸侯領の区別無くその領民に対して宗門改めを行いその有効な方法として寺請(てらうけ)制度を確立した。これによってすべての住民は「檀家」として「檀那寺」に世襲的に帰属することを強制された。

宗門人別帳には戸主の名・年齢、妻の実家・結婚年月日、子の生年月日等が記されて檀那寺から宗門改役人に提出された。

寺は今の市町村役場の住民課にあたり、戸籍・住民票・諸証明書を管理・発行する。寺の住職は人々の日常生活の根底に関わり、幕府はこの寺請制度を通じて確固とした支配体制を築いた。

寺の住職は仏事とは無縁のこうした庶務を幕府に押しつけれられたが、同時に衣食住の全てから、寺の修復まで檀家に寄付してもらう特権を保証された。同時に町民・農民に対する教導者として位置づけられたのである。

庶民の子は檀那寺の寺子である。寺の本堂に寺子を集めて読み書きを教えたのが寺子屋の始まりである。ここに庶民の学習の場が出来た。

・江戸幕府は開府以来、通貨制度・全国の交通網の整備に注力し広域経済圏が確立した。貨幣経済が定着し商取引が活性化する。現金取引なら領収証、掛け売りなら売掛帳、貸し借りには証文をやりとりし、手形も流通した。こうなると「読み書きそろばん」が出来ないことには社会生活が成り立たない。丁稚奉公や女中奉公でも「読み書きそろばん」は最低不可欠の採用条件となり、読み書きできるかどうかは死活問題となった。

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投稿者 2310 : 2007年10月23日 List   

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コメント

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投稿者 矢吹 : 2010年3月7日 17:54

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