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2007年09月03日
教育の必要性ってなに?(まとめ)
幼児教育における早期教育の意義や英才教育に潜む問題性などが提起されていますが、そもそも教育とは何の為に行われるものなのでしょうか
「教育ってなに?」という素朴な疑問から始まり、歴史を遡って調べてきました。
教育というのは、時代ごと教える内容から目的まで、だいぶ変化してきているようです。
常に集団や社会との密接な関わりの中で、教育の意義が考えられてきた、と言えます。
そこで、今回は一旦まとめに取り組みたいと思います。
写真「遠野のわらべ唄」
クリック の後で続きを見てね
「月刊みんぱく」2006年4月号 特集 育てる
社会で子育てする仕組み
野林 厚志さん より抜粋引用
かつて機能していた社会の伝統のなかには、子どもの健やかな成長を保証するためのさまざまな考え方や理想、それらを実現するための社会的な仕組みとしての通過儀礼などが存在してきた。また、それぞれの地域社会のなかで結ばれる子どもと大人との関係は、子どもが成長していくための大切な条件となってきた。例えば、中国の漢族社会では通常、子どもは父方の家に属することになるが、成長に伴う儀礼活動を盛大におこなう役割は母方の親族にあり、子どもの経済的、社会的な後ろ盾となってきた。また、イヌイット社会では、親以外に「儀礼的助産人」という世話人の存在が、子どもが成長していく過程において物心両面において支えとなってきた。ミクロネシアにしばしば見られる母系社会においては、子どもにとって、母方のオジが大切なことを相談する相手であり、その役割はじつの父親よりもはるかに大きいものとなってきた。こうした現象を見ていくと、子どもを育てるのは親だけではないということがわかる。子どもをとりまく社会のなかに子どもを育てるための仕組みが存在してきたのである。
上記の例にもあるように、子どもの育て方、教育方針というものは、時代・地域が変われば当然のようにその中身も変わっていきます。
そして、その中身は各家庭の親が単独で勝手に決められるものではなく、常に社会との繋がりの中に意味を見出せるものであったのではないかと思います。
例えば、日本の村落での小学生はどうだったのか?
参考:富山県方言収集緊急調査
S57年に収録された年輩の方の昔の思い出話の中に、とても大らかな一面が垣間見えます。
要約すると、
小学校には通っていたけど、家の仕事(牛の草刈≒畑仕事)でもあれば、休む事も早引けする事もまぁ普通にあった、と。
是非引用先のHPで実際の声も是非聞いて頂きたいのですが、とても肩の力の抜けた自然体の姿が思い浮かびます。
写真はJA山梨さんのHPより
勉強も大事だが、村の生産を支える役割はもっと大切。そして、学校に通う子ども達にも、その役割の一部が割り当てられており、学校の先生もその役割を真っ当する事を当り前のように優先させていた、という事でしょう。家庭と学校と村との一体感すら感じられる昔話ですね。
さて改めて、教育の必要性ってなに?をまとめてみましょう。
子を育てる、という行為は決して人間特有のものではなく、生物全般に広く見られる行為です。
そこで自然の摂理に立ち戻って考えてみると、育てるという行為は、種(集団)としての環境適応こそが原点にあると考えられます。
それが、人間の場合は社会環境に応じた、社会で子を育てる仕組み作りへと繋がっていく。
子育てを考える場合にも、やはり常に社会や集団を取り巻く外圧を掌握する事から始める必要がある事に気付きます。
さらに人間の場合、外圧適応の仕組みとして、最先端の機能=観念進化に特化してきました。
より具体的に教育の効用を考えると、以下のようになります。
様々な不全が生じる⇒突破口の探索⇒新たな観念の獲得⇒充足を得る
「外圧の掌握」 「思考過程」 「新認識で外圧適応」
このようなサイクルの循環が、勉強の楽しさ、効果を生み出し、充足体験の積み重ねとなり、更なる好奇心を掻き立て、追求力の源泉 となって行くのでしょう。
また、最後の充足を得る、という過程にも条件があります。
入口の不全が、自分だけではなく自分達(集団や周りの人々)が感じている不全である場合、その問題への突破口を導き出す事は、「みんなの期待」へ応える事となり、得られる充足もより大きなものとなります。
一人でこつこつと調べ物をして、何か新しい事が解っただけでも、一定のすっきり感は得られます。しかし、そこでの充足は瞬間的、あるいはとても小さなものでしかない。
しかし、そこで得た認識を使って、周りの人々の期待に応えられる事ができた時には、喜びや感謝などの評価も得られます。
この『自分も相手も嬉しい=共認充足』が得られる、という事が学習意欲のミソなのだと想います。
小さな子ども達にとっては、学校や日々の生活は、実は新認識 😯 の連続 🙄 。
日々の疑問や毎日の気付きを発信する子ども達の声に耳を傾け、共に考え、喜び、時に間違いを正し、共認充足を広めていく。
教育という課題は、親や先生、あるいは政府の仕事と限定せず、もっと言えば大人と子ども、と分ける必要なども無く、常にみんなの期待に応える仕事と捉えるところから始める必要がありますね
かわいでした
投稿者 kawait : 2007年09月03日 TweetList
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