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2012年11月17日
こんなにすごい!自然治癒力☆+゜~愉気法から「気」を考察する~
今回は、野口晴哉氏が集大成した整体法(野口整体)の愉気法を通して、「気」とは何かを考えていきたいと思います。
野口晴哉氏は、「気」について、以下のように述べています。
「気は心」といいますが、「気」は心そのものではありません。「気」は見えませんし、触ることも出来ません、ただ感じるだけです。それも五官で感じるわけではありません。山の中でも水があれば水の気を感じますし、火であれば火気を感じます。そして「気」は誰にも感じます。しかし五官で感じたのではないので、誰も確定的なことはいえません。
なんとなく気になったとか、あとでフッと気付いたとか、そんな気がしたとかいうだけです。気とはそういうもので、見え、触れ、味わい得るものではありません。
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愉気とは簡単に言うと昔からある「手当て」というものです。体のどこかが痛い時には思わず自分で手を当てたり、背中などは人に擦ってもらったりしますが、体が弱った時には、そうしてくれる「手」が大変ありがたく感じるものです。これは人間の本能的な行為です。
野口生体 白山医療院の愉気法より引用します
「愉気」と「潜在体力」
愉気というのは「気」を集注する(集め注ぐ)ことです。 簡単に言えば、一点に注意を集めるということです。 手指を当てて、そこから 「気」 を集注していきます。 昔から治療のことを手当といいますが、誰でも痛いところや苦しいところには自然に手がいくものです。手を当てるということは本能的な行為であり、治療の原点といえるでしょう。
「気」 を集注するということは普通考えられているよりずっと相手を変える力があります。穏やかな日の光でもレンズで集めることで物を燃やす力を持つように、「気」も集注することで体を変える力を持ちます。
愉気には、人間に眠っている潜在体力を呼び覚ます力があります。 人間の体の中には、普通では信じられないような力が眠っています。私は、大きな怪我をおった人や命に関わる重病といわれた人が、奇跡のような回復力、治癒力を発揮したのを何度もみています。 それはみな、その人の中に眠っている潜在的な体力が発揮された例です。
人間の持つ治癒力 ・ 回復力というのは、本来ものすごいものなのです。 病気を抱えていつまでも治らない人は、心の動きにつっかえがあるか、体の機能のつっかえがあるために、その潜在体力が働かない状態にあるのです。
愉気は、その潜在体力を呼び起こし活性化させる最もすぐれた方法の一つです。整体で奇跡的な治癒が起こるのは、みなこの潜在体力が発揮されたことによるものです。
「愉気は誰にでもできる」
愉気は、難しく考えなくても良いことです。普段から、誰でも自然にやっていることですから。お腹が痛いときに無意識にお腹に手を当てるのも愉気ですし、お母さんが子供の傷口をフーフーと吹くのも愉気なのです。そこに注意を集めること、「気」 が集中することが愉気です。そして、「気」が集中すると、その部分の体の働きが高まってきます。
愉気は、長い時間行うことが良いわけではありません。 時間の長さよりも、集注の密度が大切です。集注の密度が高ければ、10分の愉気より、10秒の愉気の方が効果があることもあります。といっても、気負ったり、力んだりしてはいけません。愉気における集注とは、雑念のない澄んだ心の集注です。
こういうと難しく聞こえますが、要はただ他のことを考えず、手を当てているところに注意を向けて、ゆったり静かに呼吸すれば良いのです。手のぬくもりを、相手に伝えていくようなつもりでおこなえば良いと思います。
整体において、愉気はもともと、気を輸るという意味で、「輸気」 と書いていました。しかし、雑念や心配の気持ちを気に乗せておくっても仕方がない。澄んだ、明るく、愉しい気を伝えていこうということで、「愉気」 と改められたのです。
愉気とは人間の気が感応し合うということを利用して、お互いの体の働きを活発にする方法です。そして日常、本能的に誰でもおこなっているものです。 難しく考えず、構えずに、気楽にやってみましょう。
「気」を集注することで、「気」には人間に眠っている潜在的な体力すなわち治癒力 ・ 回復力を呼び覚ます力があります。
「気」が注入されるともちろん体に行きますが、もうひとつ心に届いているのです。皮膚は元来、神経、脳とおなじもので、手当てで皮膚に触れることは、神経、脳にはたらきかけることになります。ですから、この「愉気法」を重ねることで心の通い合いがより深くなっていきます。
日本語には、「気」 に関係する言葉がたくさんあります。 「元気」 「陽気」「本気」 「根気」 「病気」 「のん気」 「やる気」 「気遣い」 「気働き」「気が乗る」 「気が抜ける」 「気が散る」 「気のせい」 等々。 みんな、心や体の働きや状態を表した言葉です。「穢れ(けがれ)」 は、「気枯れ」ですし、「腐る」 は、「気去る」 です。
日本語の中にこれだけ 「気」 という言葉があるということは、昔から日本人は、「気」というもの働きを生活の中に、つまり生きているということの中に実感を持ってとらえていたということです。「気」 というのは不思議なものです。 「やる気」 のないことを嫌々やるときは、体の力も発揮されず、すぐに疲れます。 しかし、自発的に 「やる気」 があることは疲れませんし、体も軽く動きます。 たとえば、仕事の営業で歩くのは疲れるのに、ゴルフで歩くのは爽快で疲れない。頼まれた買い物ではくたびれるのに、欲しい物を買いに出るのは体も軽く疲れないものです。
「その気」 になって行動するのと、嫌々やるのでは、結果が違います。 では、「気」 は心の問題なのかというと、そうともいいきれません。 なぜなら、「その気」 になること自体が 「心」 (意志) ではコントロールしにくいからです。 「やらなくてはいけない」 と 「心」 ではわかっていることも、「気」 がのるかどうかは別の問題です。
そして、「やる気」 も 「根気」も、体調に関係しますが、もちろん 「体」だけの問題でもありません。 「気」 というのは、「心」 と 「体」 の両面と深く関わりながら、その両方を支え、それらをつなぐ、生命の根本のエネルギーです。
「心と体と気」
「気」 というものは、人間がまだ 「心」 も 「体」 もできあがってないときから存在しています。 新しい生命の誕生が受精の瞬間だとすると、人間はまだ脳も心蔵も手も足もないときから生きています。 その生命の力が一個の受精卵を発達させ、人間を形作っていきます。この、まだ 「心」 も 「体」 も分化していない状態から働き続けている生命そのものの働き、生命そのものの力を、「気」とよんでいるのです。
そして、「気」 は生きている限り働き続けます。その、生きる力=「気」 に働きかけ、停滞しいるその力を奮い起こさせようとするのが 「愉気法」 です。
人と人との関係には必ず気の交流があります。 たとえば、誰かに話しかけるときには自分の「気」 は相手に集まっています。 そして、それに対して相手の 「気」 がこちらに向いて会話が始まります。 ここには 「気」 の交流が行われています。 つまり、お互いの 「気」 が同調することで人間の関係というのは成り立っているわけです。
「気」 の同調といいますか、「気」 の交流といいますか、そういうものが人と人との交流、人間関係の根底にあるのです。ですから、治療において相手の体の働きを活発にしていこう、悪いところを良くしていこうと働きかけるのでも同じです。そこには 「気」 の交流、「気」 の集注がなくてはいけません。
古代より中国では「気」とは、自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーの元であると考えられてきました。気を操るというのは、そういうものである「気」を措定して、その「気」に対して、期待をかけると、その期待に対してこたえてくれるものを言うのではないでしょうか。
またこの考え方を自然治癒力とは何かに置き換えると、病になった時健康を回復するため「気」に期待しますが、その「気」が自然治癒力ではないでしょうか。
投稿者 toshi : 2012年11月17日 TweetList
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