近代思想に支えられてきた家庭(1)~プロローグ編~ |
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2010年12月21日
『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~11.明治時代の公教育の変遷(2)
こんにちは また一段と寒くなってきましたね
前回の明治時代の公教育の変遷(1)では、創始期として、「学制」の頒布~改正教育令の制定までを押さえてみました
今回は、引き続き、確立期として、いよいよ明治の教育制度の全貌にせまっていきたいと思います 😉
その前に、
いつも応援 ありがとうございます
確立期
明治二十年代の初めは憲法発布、国会開設によって立憲政治が行なわれることとなり、明治初年以来の改革が一つの段階を築く時代となった。十八年内閣制度が創設され、文部省に初めて文部大臣が任命されることとなり、森有礼が着任した。森文相は学校制度全般にわたる改革を断行し、基本となる近代学校の体系をつくりあげた。
特に官僚養成のための帝国大学を設立したことは、後の日本の政治の官僚支配を生むきっかけとなったという点でも注目に値する。
以下、るいネット『文官高等試験合格者が権力の座に着いた昭和初期に日本はおかしくなり始める』より引用
■官僚養成のため帝国大学を設立。文官試験は補助的方法として出発
この情況を憂えた伊藤博文は、ドイツ・フランスが官吏養成所を作り成功した事例を調査させた。伊藤は1885年内閣総理大臣に就任し、1886年(明治19年)に帝国大学令を定めて東京大学を帝国大学とし、藩閥にとらわれない官吏養成機関(主として文官の養成機関)とした。
翌1887年(明治20年)には文官試験試補及見習規則を定めた。この試験は後の私立大学出身者に受験資格を付与した。帝国大学の法科大学・文科大学の卒業者は、この試験を経ずに各省の試補として採用され、こちらの方が採用人数は多かった。入省後、学士試補が主流で試験試補は傍流という実質的な差別待遇も行われ、後の官学・私学による待遇格差の遠因となる。
(4)学校令の制定(1885年/明治18年、森有礼文部大臣)
時代とともに国家主義教育の流れが強くなり、近代学校制度を「学校令」の制定でまとめた。本「学校令」を中心とし、その後10~20年の改正で、教育制度の骨格が定まり、戦後の学制改革まで続いた。
森文相は、学校体系の基本となっている小学校、中学校、大学と教員養成機関を重視して師範学校の四つの学校制度を確定した。
「学校令」は「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」の総称で、学校種別に法規を定め国民教育としての各学校の役割を明確にし、国家のために学校教育はどうあるべきかを重視した。 教育と学問を区別し、大部分の国民に国民として必要な基礎的教育を受けさせ、一部の人間が国家の指導的立場に必要な学問を身につけるために帝国大学に進学するようにし、指導層の養成を図った。
① 帝国大学令: 帝国大学は国家に必要な学術技芸を教授し、その蘊奥を考究し、分科大学は学術技芸の理論、応用を教授するところと位置づけた。これにより帝国大学は東京大学を母体に、法科、医科、文科、理科、工科、農科の分科大学から作られた。
② 小学校令: 小学校は尋常小学校(4年)、高等小学校(4年)に再編され、尋常小学校が義務教育とされた。しかし、授業料が徴収されたので、徴収しない小学簡易科(3年)を設け、代替できるとした。 尋常小学校の教科目は修身、読書、作文、習字、算術、体操、図画、唱歌とした。
③ 中学校令: 中学校は実業に就く者、高等の学校に入学する者に教育をするところと位置づけられ、尋常中学校(5年)、高等中学校(2年)に分けられ、1891年/明治24年までは公立中学校は1県1校とされた。高等中学校は文部大臣が所轄する官立学校で、第一(東京)、第二(仙台)、第三(京都)、第四(金沢)、第五(熊本)、第六(岡山)、第七(鹿児島)の7校を設け、実業と進学予備の両教育の役割を持っていたが、帝国大学の予備教育機関としての性格が強かった。
④ 師範学校令(1886年/明治19年): 公立小学校長と小学校教員を養成する尋常師範学校が各県に1校、尋常師範学校長と中等学校教員を養成する高等師範学校が東京に1校設けられた。師範学校生徒の学費は公費とし、卒業後10年の服務義務を負い、そのうち5年間は府県知事指定の学校に勤務せねばならなかった。師範学校生徒には兵式体操を学科課程にいれ、「順良」、「信愛」、「威重」の三気質を養うことが求められ、教師になるには「学力」よりも「人物」が重用され、教師により善良なる臣民を育成することが期待された。これまでは、師範学校は最高学府で立身出世を望む学生など多士済々であったが、師範学校令で統制が強化され、寄宿舎生活で軍隊式の教育も行なわれ、「真面目、着実、親切、内向的、偽善的」という師範タイプができた。
⑤ 教科用図書検定条例(1886年/明治19年)が制定され、教科書の検定制が実施され、
1887年/明治20年には、これが改訂され「教科用図書検定規則」が制定され検定制が実施運営された。当初行政は教科書の内容について消極的関与であったが、1892年/明治25年の改訂で小・中・師範学校の教科書について積極的に関与するようになり、学年別、段階的に編集していった。
以下、「日本を守るのに右も左もない」ブログ『日本支配の構造28 初代文部大臣が進める欧米化?! 森有礼って何!!』より引用
森は明治5年にホイットニー宛ての手紙に、「商業民族であるべき日本」が「急速に拡大しつつある全世界との交流」をすすめるためには「英語を採用することが不可欠」だと書いたのだ。日本語を廃止したいとは書いてはいなかった。
そのかわり森は、「日本の言語のローマ字化」を提案し、かつ「日本国民の使用のために英語からすべての不規則性を取り除くこと」を主張して、簡易英語の普及を訴えた。
このように、森有礼は英語化路線をとったことでも有名で、このとき仮に彼の意向がまかり通っておれば、現在の日本はどうなっていたことか・・・と思うと恐ろしいものがあります
また、森に限らず、外山正一( 後述)や西園寺公望、あるいは、戦後GHQによっても、漢字廃止→ローマ字化or英語化への画策があったとのことです
(5)教育勅語の下賜(1890年/明治23年、芳川顕正文部大臣)
さらに国家意識を涵養することが進められ、ご真影の下付、紀元節・天長節・元日の拝礼、紀元節・天長節の歌の演奏などが勧められ、1891年/明治24年には「小学校祝日大祭日儀式規定」で教育勅語を奉読することが指示された。
さらに徳育涵養・強化を進めることが各地の教育担当者から要請され、徳教に関する箴言の編纂が進められ、国民道徳の面から国家体制を支える基本方向を示した教育に関する勅語(教育勅語)が明治天皇から下賜された。勅語では国体が教育の源であることを示し、天皇臣民である国民の守るべき徳目を列挙し、実践を通して皇運を扶翼するのが臣民の務めであるとした。
「小学校令」は行政命令である勅令として、1890年/明治23年に新たに制定された。勅令は国会審議で決められる法律ではなく、天皇が直接発する命令のことで、この方針は戦後まで堅持された。1891年/明治24年制定の「小学校教則大綱」で修身教科書も検定され、授業時間も倍の3時間に増え、徳目に重点が置かれた。
(6)学校教育の多様化と普及(1893年/明治26年、井上毅文部大臣)
殖産興業の発展、それを支える職業人の養成のために「実業補習学校規定」「簡易農学校規定」「徒弟学校規定」が制定され、中堅農民や下級職工の養成が目指された。
「高等学校令」(1894年/明治27年)を制定し、高等中学校を高等学校に変更した。専門教育を行う高等機関として、大学予備校としての性格を薄めようとしたが、逆に帝国大学への進学希望者は増え、それに対応して京都(1897年/明治30年)、東北(1907年/明治40年)、九州(1910年/明治43年)に帝国大学を設置した。
一方で、専門教育を充実するために、「実業学校令」(1899年/明治32年)を公布し、高等教育機関として実業専門学校を規定し、さらに「専門学校令」を制定し、各種の専門学校を高等専門学校として位置づけた(高等商業専門学校、高等工業専門学校など)。実業学校には農業学校、商業学校、工業学校などがあった。
高等女学校は「中学校令」(1891年/明治34年)改正で規定されたが、「高等女学校令」(1899年/明治42年)の制定で女子の中等教育機関としての高等女学校が確立された。しかし、高等女学校の修業年限は4年であり、良妻賢母のための家事や裁縫に重点が置かれ、「高等女学校令」の改正(1910年/明治43年)では家事・裁縫主体の実科高等女学校が設置された。
1890年代から児童の就学率は向上し、1900年には80%を超えた。
「小学校令」の改正(1900年/明治33年)で就学猶予、免除の規定が明確化され、尋常小学校の義務就学期間は4年に統一され、授業料は徴収しないことになった。
1903年/明治36年の「小学校令」改正では教科書の国定制が実施され、国語読本、日本歴史、地理、修身教科書の国定化などで、教育勅語の理念をさらに徹底した。
さらに1907年/明治40年の「小学校令」の改正で義務教育年限は6年に延長され(尋常小学校6年、高等小学校2年)、新たに第2期国定教科書が作られた。日露戦争後の社会主義運動の高揚を危惧し、近代市民社会の倫理よりも家族的国家倫理を重視するようになり、忠孝を一体で捉えるようになった。
明治初期の教師は聖職観が強かったが、資本主義の発達につれ、上級学校の整備も進み、経済的に貧しい層が師範学校に進むようになり、教師の社会的地位も低下した。
教育制度が整備され、充実していくと、中央集権化、国家統制が進み、国民の役割を教育を受ける学制の利用程度で分別されるようになり、教育を受ければ、能力のある人は社会で大いに活躍することができた。この中で、女子については能力よりも性差別の方が優先され、社会で活躍するよりは家庭での活動に制約されていた。また、国民は天皇の臣民として、徳目を守り、実践を通して皇運を扶翼するのが務めであるという考えが進んでいった。
資料:
化学工学会「日本の教育の歩み」
文部科学省「学制百年史」日本の教育史の概観
投稿者 staff : 2010年12月21日 TweetList
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