「婚姻論」の史的価値 |
メイン
2010年03月15日
現行の『婚姻制度』~その中身と成り立ち(7) 社会統合組織の史的総括 国家と教団
こんにちは 🙂
明治以降共同体が解体され、核家庭の増加していく中で、現在家庭の中で問題が至る所で起こっています 😥
これは、家庭の中に充足できる課題がなく、モヤモヤした状況の中で生きているので、必然的に非充足になっているからだと考えられます。一方で、家庭という密室状況を作り出すことで、ますます人の心は閉塞してしまい、心が閉塞するという状況を作り出しています。
今回は、国家と教団という切り口から歴史を遡りながら、家庭がどのように存在していたのか探ってみたいと思います。
応援宜しくお願いします。 😀
A.国家
社会統合は、剥き出しの武力(強制共認)から、私権の追共認(受容共認)へ、更に法制共認(自主共認)へと移行していった。
○武力統合の時代
戦争の外圧⇒暴力装置(軍隊、収奪=徴税、監獄)による絶対支配
↓
○私権統合の時代
私権獲得の強制圧力⇒力の序列共認=力の追共認
↓
○法制統合の時代
力の序列共認⇒身分序列(資格を含む)の共認を主柱とする法制共認
ここでいう強制共認とは、まさに力での衝突から勝敗が決着したときに生まれる、強者・弱者という身分が決まるものです。弱者はこれに従わないと殺されてしまうので、身分を強制的に認めるざるおえない状況だったといえます。
次の追共認とは、言葉が示すようにみなが後からどんどん私権を認めていったことを意味します。私権(己の利益・権益)は最初から有ったものではありません。
当然これを獲得したものの下に、ピラミッド上となった身分体制の基で、私権共認したほうが有利(より私権のうまみが得られる=王様からご褒美が得られる)と判断した上層部から徐々に浸透し、下層階級の人々も、これを認めることで一定の生活は守られる(=生きることが出来る)ことに直結するため、みなこれを共認し、下部にまで玉突きのように私権共認が進んでいきます。
そして、法制共認とは、裁くための法律を利用したほうが、私権をより手に入れやすい状況を作り出せると、みなが可能性収束し生まれたものですが、逆の見方をすれば、法を作り出した側は、そもそも最初から私権獲得目的で作ったものであるため、後から大衆がこれを追共認していたとも捉えられます。
a.教団
国家(武力統合)は、その秩序の維持を、次第に、より能動的な共認に依存するようになる。
そこでは、まず何よりも、私婚(家族)・私権(身分序列)の追共認に依拠する。
本源集団が解体され常に警戒心を抱えた人々にとって、「自分以外は全て敵」という性闘争(⇒自我)に立脚した私婚・私権の追共認は、容易に主体的(肉体的)な自主共認として浸透した。また、現実には失われた心(=期待応望)の充足欠乏に応えてくれるものとして、本源価値に立脚した宗教が登場する。
頭の中だけなら、誰もが全面的に自主共認できる。
そうして人々は、自ら倒錯観念収束を強めていった。従って最終的には、国家は、心を支配できるこの倒錯観念に依存するに至る。
観念支配の始まりである。
武力闘争が落ち着き、私権国家が強固になるにしたがって、集団意識から個人意識へと人々の意識は変化し、廻りを警戒する方向へ向かっていきます。
一方で、下層部の大衆は生きることはできるが、現実の生活は苦しいものには変わらず、それに変わる充足を求めていた時代です。そこで教団による教えが人々の頭の中だけでも安心できるような倒錯観念を刷り込んでいきます。(例えば、ここで苦しい思いをしていれば来世は救われるなど)
しかし、ではなぜ人々はここまで教団に収束してしまったのか。上記だけの理由だけでは、人に備わっている共認充足がえられることには繋がっていないように思います。
るいネット「国家が宗教に依存するのは何で?」にそこに収束する引力が、述べられています。
私権国家は宗教に依存することなしには存立することができない。それは何も古代国家に限ったことではなく、現代の国家についても言えることである。民主主義に代表されるような近代思想を近代の宗教と捉えるならば、近代国家も例外ではない。民主主義も現実否定に基づく頭の中を代償充足させるだけの美化観念であり、そうであるが故に実現された試しのない観念であるという点では古代宗教と構造的に同じである。
そうなってしまう理由は、大雑把に言えば、国家とか社会といった人工肥大集団は、最終的には観念でしか統合できないという理由によると思われるが、その観念がなぜ宗教であったのかという点が追求してみたい問題である。
それは、これまでの私権国家が序列原理で統合される集団であり、序列統合の統合限界(武力による強制圧力だけでは統合できないという限界)を超えるために宗教的観念が必要とされたということになるのであろう。しかし、より根本的に考えると、人間は一時たりとも共認充足なしには生きてはゆけない生き物であるという点にその理由があると思う。
私権闘争が必然的に生み出す支配や差別、搾取といった否定的現実(共認不全)に対して、せめて頭の中だけでも代償充足をしたいというのが、多くの人々が宗教に救いを求めていった理由であったのは間違いないと思う。しかし、宗教がたとえ代償観念であったとしても、あるいは、私権の強制圧力でどれだけ迫害や弾圧にあったとしても、歴史的・世界的に脈々と信仰が受け継がれてきたのは実に注目されるべき点である。宗教は麻薬であるという言葉もあるが、それくらい人々の失われた本源価値に対する共認充足の想い、共認収束力は強かったのだと考えていいだろう。
本源価値に立脚した宗教とは、そもそも宗教がだましだとしても、そこに人々が集うことによって周りとの共認充足をえられる場として活かされていたのではないでしょうか。
本来、人類は本能機能⇒共認機能⇒観念機能という順番で進化してきました。確かに、神を信じることで頭の中が救われる(充足)できることもあると思いますが、より深いところにある共認充足を充たすには、人とのつながりは重要です。
私権時代は、「周りは全て敵」という意識が働く一方で、本来人が求める共認充足を教団という場を利用していたのでしょう。
私権闘争(及びそれを生み出す自らの私権欠乏(下半身の本能的欠乏))の現実は不動のもの、変革不可能なものであり、そのような現実は否定できないが故に、宗教は現実逃避の代償観念でしか在り得なかった。それは生存圧力が絶対であり、万人が私権を共認してしまった状況下では不可避の必然的な構造であったかも知れない。しかし、見方を変えれば、それはある意味では生きるために仕方のなかったことであり、人類が脈々と追い求めてきたのは本当は共認充足の方であったのではないだろうか。やはり人間にとっては本能的欠乏よりは、共認欠乏や共認欠乏を充足させるための観念の方が収束力が強いと言ってもいい。だからこそ、人々は自主的に宗教を共認したのであり、だからこそ、国家も宗教に依存しなくては統合できなくなってしまったのではないだろうか。
そのような観点で考えれば、生存圧力を克服した現代、人々が共認充足を現実のものとできる可能性に収束してきているのは、人類進化の必然であると言っていいと思う。だとしたら、宗教的な代償観念を現実に立脚した実体観念⇒構造観念・事実観念に置き換えてゆくことが何よりも求められる。そうすれば、新しい国家(国家を超えた社会統合機構)は宗教的な観念に「依存」するというよりは、「実体観念のもとに統合される」という本来の観念統合のあり様に変わってゆくであろう。
私権時代には、教団に人々が可能性収束するところから、国家は、宗教を利用し統合しようとシフトしていきます。このように、国家自身が宗教の力を使って、社会に存在する家庭を観念で統合していくようになります。
しかし、生存圧力を克服し、私権が衰弱した現代、人々は宗教から周りの人へと共認充足の可能性へシフトしています。(日本では、もともと宗教に固執せず、多宗教・無宗教というように、たくさん神様がいたり、そもそも現実直視し、課題を克服してきた人種だから、私権時代から共認時代に移行して、一番最初に人という共認充足(仲間とのつながり)の可能性へシフトした。)
一方で、教団の力を利用して国家は、人々(家庭)を観念で統合していたのに対し、私権が消滅した現在、国家の中に、個として存在する家庭には、課題がないため非充足空間の中で、人々は生活しています。
本来人は、共認充足であらゆる課題を突破してきた動物です。私権時代でも人々は共認充足を求めていたように、現代ではより強く共認充足に可能性を感じている人はたくさんいます。
今みんなが求めているのは、課題を共有できる「場」⇒活力△⇒充足という共同体のような安心基盤なのだと思います。 😀
充足課題が無数に存在する社会に飛び込むためにも、家庭からの脱却は必要なのだと思います。
投稿者 kaneking : 2010年03月15日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2010/03/1021.html/trackback