教育の再生どうする?~生産活動の場での教育再生の取り組み事例:キャリア・スタート・ウィーク |
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2010年03月04日
『家庭って何?』~市場の拡大限界は、国家の統合限界でもある~
みなさん、こんにちは。
前回の『家庭って何?』シリーズでは、 ”消費”にスポットを当て、一体何にお金を使ったらいいの?そもそもお金とは?そしてお金が絶対的な指標となっている市場とは?というあたりを扱いました。
今回は、市場が縮小、限界を向かえた現在、国家も統合限界を迎えているという記事を紹介します。
国家が限界を迎えた状態で、家庭はどうなってしまうのでしょうか?どうすればいのでしょうか?
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るいネットからの引用です。
市場は、社会を統合することが出来ないという決定的な統合限界を刻印されているだけではない。市場は、自分自身の内に絶対的な拡大限界をも孕んでいる。
市場は、生存圧力(実体的には貧困の圧力)に基づく私権闘争を圧力源=活力源にしている。従って、市場活動によって物的な豊かさが実現すれば(=貧困の圧力が消滅すれば)、必然的に市場は活力源を失って衰弱(=縮小)してゆく。 そして、むしろこの矛盾と限界こそ、市場の現実に差し迫った絶体絶命の限界である。
もし、国家(国債)による延命策がなければ、(バブル化もせず)市場はすんなり縮小過程に入った筈である。要するに、このまま市場を放置すれば市場は急速に縮小し、国家が延命策を施し続ければ国家が崩壊する。一体、どうすれば良いのか?
もともと国家は、私権闘争を圧力源=活力源とする、力の序列原理に貫かれたその統合体として形成された。しかし、生涯固定の身分制度の下では、私権拡大の可能性は封鎖されて終う。そこで、私権闘争の抜け道としての市場が形成され、繁殖してきた。そして今、その抜け道としての市場さえ活力を失って終った。
これは、明らかに私権闘争の終焉を意味する。そして、私権闘争が終焉したということは、私権闘争の止揚・統合体である国家の命運も、遂に尽きようとしているということに他ならない。実際、バブル期以降の国家の迷走ぶりは、すでに誰の目にも明らかである。カギは、新たな活力源⇒圧力源の創出にある。 貧困が消滅した’70年以降の30年間がそうであったように、今後更にそれを上回るスピードで私権の強制圧力が急速に衰弱してゆく以上、もはや人類は、生存圧力を背景とする私権闘争を圧力源=活力源として生きてゆくことは出来ない。
人類の命運は、次の新たな活力源⇒圧力源を自らの手で作り出せるか否かにかかっている。
豊かになってしまうと、必死に生きていかなくてもなんとかなる
その結果、がんばろう!という活力が衰弱する
という必然構造 があるのです。
では、このドン詰まり状態をどうやって抜け出せばいいかと言うと、
新たな活力源たる圧力源を自ら作り出す 他にないと。
それには、まず共認充足を得られる場が必要で、かつ「個から集団」、「自分からみんなへ」の意識転換が必要です。
国家や企業と同様、家庭も統合限界を向かえ、バラバラ状態。活力が衰弱しています。
家庭は本来、教育機能を持っていましたが、いまやそれは完全に外注化(保育所や塾など)されています。密室空間となってしまった現在の家庭では様々な問題を孕んでいますが、その中でも、無圧力空であるというのが最大の問題です。では、どうすればいいのでしょうか。
例えば、こどもたちを小学校5年生くらいの年代から、すべて全寮制の学校に入れてしまうなどして、仲間空間に身を置かせ、周囲の仲間からの期待(共認圧力)がかかるようにすることです。そうすれば必然的にみんなの期待に応えよう、課題を突破しようという活力が沸いてくるはずです。
(映画『ハリーポッター』シリーズより)
密室空間である家庭にいてはとても経験できません。
このような全人教育がこどもたちに必要だと思います。
投稿者 shushu : 2010年03月04日 TweetList
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