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2020年07月03日

教科書は試験の原典。宗教の聖典と同じだから絶対であり真理になる。

学校の教科書。卒業してからは一度も読み返したことがありません。

社会人になるための基礎を学ぶのが学校であれば、その基本が教科書。何かにつけて読み返してもよさそうなものですが、やがて邪魔になって捨ててしまう人がほとんどでしょう。

今回は、教科書っていったい何なの?
について考えてみます。

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以下(http://www.fujitsubame.jp/jiyuu308.html)より引用します。
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大人になったら、何になりたい。この質問こそ、問題意識の原点だ。子供の頃は、いろんな夢があったのに、なぜ、学校に行く間に、夢は、色あせ、画一的なものになっていってしまうのだろうか。
感動を押し殺し、偏差値や成績という数字の中に子供達の心や夢を封じ込めていってしまうからだ。子供達は、現実社会に夢を持てなくなってしまっている。これもまた、教育の成果。

問題意識というのは、問題を認識し、問題を作るところから始まる。

現実の世界は、写真のように制止しているわけではない。出された答えよりも、答えを出す過程の方が重要なのである。それが、問題意識である。それは、カメラのようなものではなく、テレビのようなものである。答えは、一定ではなく、条件の変化によって絶え間なく、変動している。それが、現実である。今、正しくても、次の瞬間には、間違った答えになることがある。それ故に、間違いは、誰でも、犯す、可能性が、あるのである。それ故に、答えよりも、問題の設定に誤りがあったかどうかを、検証することの方が重要なのである。

教科書は、聖書ではない。また、現実の世界は、教科書に収まる世界ではない。実際の世界は、教科書には書かれていない、教科書には書けないことに満ちている。

ところが、学校においては、教科書は絶対である。学校では、教科書に書かれていることには、何の矛盾もなく、間違いもないと信じ込ませる。それを実行しているのが、学校の先生である。なぜならば、試験制度下においては、試験の原典である教科書は、絶対でなければ都合が悪いからである。こうなると、目的より、手段の方が重要になる。かくして、教科書は、宗教の聖典以上に、絶対なものとなる。宗教の聖典に書かれていることは、迷信でも、教科書に書かれていることは、真理である。白いものでも、教科書に黒と書かれれば、黒になるのである。教科書に書かれた英語が、言葉として使い物にならなくても、試験に出る以上、マスターしなければならないのである。

学校においては、教科書に書かれていることが、真実であり、真理である。そこには、現実も事実も入り込むことはできない。なぜなら、教科書こそ学校や教師の権威の源泉であり、試験制度の土台だからである。そして、試験制度によってしか、今の教育制度は維持できないからである。教科書の絶対性が失われたら、試験制度は土台から崩壊し、学校は、生徒を管理する術を失い、教師に対する生徒の信頼は失われる。故に、学校では、教科書に疑問を呈することは、タブーなのである。

現実の社会では、正しい答えであっても教科書に載っていなければ、学校では間違いになる。現実に大学で教わる方法で、高校の試験問題を解けば、答えはあっていても間違いになる。その理由は、高校では、教えていないからである。小学校の時、代数を使えば簡単なんだけどなと、つぶやいた先生がいた。

現実の世界は、教科書に書かれていないものだらけである。しかも、教科書に書かれていないことの方が大切なことが多い。
本来なら、現実を観察し、そこから、学び取る真摯な姿勢こそ教えるべき事である。
その意味で、少なくとも学校には、人生の教科書と呼べるものはない。

まともに話し合うことができる場所が、学校の本来の姿なのである。子供達もそれを望んでいる。人生についてまともに、相談できる相手こそ、真の教育者なのである。子供達もそういう師を求めている。生きていくうえで必要な多くの示唆に富んだものが、優れた教科書なのである。子供達も、そういうものを欲求している。しかし、恋人の見つけ方やつきあい方を、相談できるような人生の師は、学校にはいない。教科書には、生きていくために必要な、人とのつきあいかたやしつけは書いてない。
子供達にもたらされるのは、虚脱感と空しさだけだ。

現行の教科書の間違いは、一律に、一定の解答があると、思いこませることだ。現実の世界は、絶え間なく変化をしており、一律一定の解答が、あることは、まれである。同じものを見ても、人それぞれ感じ方が違う。世界には、未知なものが多く、科学の法則も仮説に基づいたものにすぎない。

子供達に対し、先生が教える解答は、絶対的で、普遍的であるとしたら、それ自体、子供達たちに、間違った現実認識を植え付けることになる。ところが、学校では、教科書に書かれていることは絶対である。そして、教科書に基づいて全国一律に試験がされる。

現代社会の特徴の一つは、価値観の多様化だといわれている。しかし、本当に価値観は多様化されているであろうか。むしろ、自己の内部の価値観は喪失し、主体性もなく行動しているだけなのではないか。一見、価値観が、多様化して見えるのが、実際は、ただ、外部から与えられた情報や価値観に、主体性もなく依存しているだけなのではないのか。麻薬に中毒したように。これは、一種のゾンビである。

現に、価値観の多様化という間違った事実認識の一方で、実際には、画一的な価値観の人間を多く生み出している。それがまた、個性尊重という考えを生み出すのであるが、個性とは、元々、一人一人が、持っているものであり。個性化などと改めて言わざる、をえないのは、人間が画一化されている証左にすぎない。結局、上っ面は、多様に見えても下は一つなのである。
これを思想教育といわずに、何を思想教育というのだろう。これは、ある種の洗脳教育である。
このような間違った教育によって、子供達は、暗記と教科書をマスターすれば、この世の全ての真理を理解できると錯覚するのである。その為に、学校や教師が絶対化し、過度の期待をもたれることになる。そして、学歴の優秀な者は、万能の力を得ることになる。しかし、考えてみれば、彼等は、受験勉強オタクに過ぎない。その結果、学歴偏重をもたらすのである。一般常識や社会認識に欠けているのは、よく知られている。

没個性、画一的な人間にしてしまう一方において、未知な世界に対する興味や探求心を失い。現実の変化についていけない人間を多く育ててしまう。そして、彼等の多くが、教科書的な世界の中に埋没していくのである。

試験をしなければならないから、試験をするために問題を作る。試験問題を作るためにカリキュラム、つまり、教えるべき事、を決めなければならない。そして、そのために教科書が学課の中心になる。馬鹿げている。本末転倒である。このことに疑問を感じないようでは、それだけで人を指導する資格はない。
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試験・受験問題の回答を書くためのテキストが教科書。受験が終ったら見向きもされないのは当然のことです。また教科書は試験に役立つけど、それ以外のことには一切、何の役にも立たないということも明らかです。

私たちは学校で何を学んできたか、これからは何をどう学んでいくべきか。教科書の正体を見極めたうえで、本来の学びを実現していかなければなりません。

投稿者 hoiku : 2020年07月03日 List   

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