こどもの仕事は遊びである!47 ~答えは必要無い、考えること・知りたい!が大事 |
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2019年11月08日
「あんたが行かれへん学校が間違ってんねん」
学校に行けなくなる子の大半は、「学校に行かなくては」「学校にいけない自分がいけないんだ」と、自分を責めるる傾向にあるそうです。
それが余計な負担となり、ますます学校には行けなくなるという負のスパイラルに陥ってしまいます。
でも、自分ではなく学校がおかしいんだととらえると、状況は一転します。
今回は、おかしい学校を変え、多くの不登校の子たちが集まってくる大空小の元校長先生のお話を紹介します。
以下(https://futoko.publishers.fm/article/21106/)より引用します。
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――大空小のことを知ったとき、学校という場に初めて希望を持てました。
大空には「不登校」のレッテルを貼られた子が、山と来てるんです。命まで断とうとした子が大空に来て、当たり前のように学校に居る、学校に来る。これは前の学校に、その子が吸える空気がなかっただけ、居場所がなかっただけ。その子は100対0の割合で悪くない、と思ってます。
だから学校が変わらなあかんのです。でも学校だけでは、なかなか気づけへんのですよ。上からの圧力が強いので。その圧力に屈している学校はもちろん間違っているんですけれど、そういう結果になっているのが残念じゃないですか。だから気づいたみんな――子ども、保護者、地域住民、学校で働いている人間――が自分事として、学校を変えていこう、ちょっとでも学校に穴を開けに行こうよと。これが「みんなの学校」です。
――そういえば木村先生は「不登校(の子)」という言い方を絶対にされませんね。
よく親御さんが「うちの子は不登校なんです」と言うけれど、「不登校という言葉がどれだけ上から目線で、子どもに失礼な言葉やと思ってる? それを母ちゃんが使ってたら、話になれへんやろ」というところから、親御さんにはしゃべってしまいます。
――不登校……、いえ、 学校に行けなかった子が行けるような学校を実現したこと、すごいです。
でもね、大空でできていることが「特別」というような発信の仕方は危険だと思うんです。大空のやっていることは、パブリック(公立)の学校として当たり前のこと。この当たり前を「特別」にしてしまうと、社会はいつまでも当たり前のことをやろうとしない。
――どうしたらこれを「当たり前」と考えられますか?
憲法で決まっているじゃないですか。第26条に「すべて国民は、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とある。すべての子どもが、貧困であろうが、障害があろうが、パブリックで安心して学べる居場所を作るのは、憲法の最低限の保証です。
「うちの子は障害があるけど、学校に入れていただけますか」なんて、なんで親が言わなあかんの(怒)。ある親が教育委員会へ就学前に相談に行って、子どもの障害の状況を伝えたら、「お宅の子どもさんは通常学級どころか、一般の学校の特別支援学級も難しいですから、特別支援学校へ行ってください」などと言われるわけです。就学前にそういうことを言うなんて、これ無責任ですよ。
――残念ながら、よく聞く話ではあります……。
それが今、当たり前になっているでしょう。この当たり前を、問い直さなあかんのです。
いまの社会が「不登校」と呼ばれる子どもたちを、「どうして学校に行けないの」という目で見ているんです。でもそうじゃなくて、「どうしたら学校に、この子の居場所をつくれるか?」とみんなで考えたらいい。大空はいつも、それを考えていました。
ちょっと周りと違ったり、周りの子が怒られているのを聞いているだけで苦しくなったりして、学校の空気を吸いにくくなる子どもたちって、それだけ「自分を持っている」んです。自分を持っていると、どうもみんなの中に入れない自分がある。
でも、周りの子どもが「あいつはどうしたら自分たちと一緒に学べるんやろ」と考えていたら、学校にその子の居場所がないわけないじゃないですか。
――学校に行けない子を持つ親たちに、何か伝えるとすると?
「親としてどうすればいいか」という相談をいっぱい受けるんですけれど。まず一つは、他のどんなことよりも、学校に行っていない自分の子どもに、「あなたは100%悪くない」ということを、言い続けることです。
「みんなが行けているのに、うちの子は行けない」と思っていると、「みんなが正解、うちの子はハズレ」と見てしまうんですよね。見たくないけれど、そう見てしまう。だから一生懸命、行ってほしいと願うんだけど、吸える空気がないところに行ったら、子どもは傷つくだけ。行かんほうがマシ。
でもね、そこでほうっておくなよと。「行かんほうがマシ」と言うけど、その子には学校に行って学ぶ権利があるんです。その権利は保障されなあかん。ということは、「学校が変わらなあかん」ということです。
学校を変えることは、いま学校にだけ任されている。でも全国には、母ちゃんたちが行動して、自分の子どもが安心して行けるようになったよという事例はたくさんある。
そういう母ちゃんは、自分の子が行っていない学校に、自分が学びに行くんです。それで周りの子どもたちに何か、自分がやれることがないかなって、サポーターになってどんどん入る。先生じゃない大人が、子どもたちの中で「おばちゃん、何かやることない?」みたいに居ると、子どもはね、そこに安心する居場所を見つけることが出てくるんですよ。「しんどいねん」なんていう相談を受け始める。
そういう子どもたちと、(通えない)自分の子どもは、結果的につながっていくんです。だから自分の子どもを学校で安心して学ばせたかったら、自分の子どもをほっといて、周りの子どもを育てにそこの学校に行き、と言います。
――学校が、親が来るのを嫌がりませんか?
学校が嫌がるからやめるなんて、親の主体性として間違ってる。学校に気に入られる大人になんねやったら、子どもも学校に気に入られる子どもに変えろってこと。子どもは主体的に「行かない選択」をしているのに、親が学校に気に入られたいために何も言わないなんて、親のほうが失格や。
もし校長先生が止めるのであれば、「いやいや、うちの子どもは学校に行ってないけど、私がその代わりに学校のことをいっぱい学んで、帰って子どもに伝えます」って言う。そんな(親をもつ)子らばっかりが、変わってきました。
――夢のないことを言いますが、学校が変わらない場合、行かないのは仕方がないのでは。
学校が変わらなくてよしとする、というのは絶対に間違ってます。それをよしとする社会になったら、憲法を守ってませんよ。そんなしんどい学校に無理に行く必要はないんですけれど、それ(学校が変わらない)をよしとしたら、学校もあぐらかきます。何もしなくていいんですよ、とても楽じゃないですか。何もしなくていいということは、学校の空気が変わらないということ。 そこは外したらあかんと思う。
――いま子どもたちに、なにか伝えられることは?
学校に行ってない子には、「どんな学校になったら、自分は行ける?」といつも聞きます。そうすると「勉強ができなくても怒られない」とか、「みんなより遅くても、ゆっくりしていても、早くしろって言われなくて済む」とか言う。きっかけは全部やっぱり、先生の枠にはめようとする一言なんです。
周りの子どもたちができて、自分ができないことで、周りの子どもたちは自分にとても嫌な目を向けてくる。そのきっかけを作ってるのは先生、行けない空気を作ってるのは周りの子どもたち。大体そういうことが多い。
「行けない自分を責めてるやろ、あんた悪ないで。あんたが行かれへん学校が間違ってんねん。社会ってな、そうじゃないねんで」っていうような話をしたら、子どもはものすごく納得します。「そんな学校、変えていかなあかんねん。私らが追いついてへんだけやねんで、ごめんやで」と言っているんですけど。
大人も子どもも絶対あきらめたらあかんと思います。おかしいと思うけどどうにもなれへん、ていうのは、受け入れていることになるから。
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すべてを学校に任せている限り学校は変わらない。親や大人たちが学校に対してどう行動するか?がカギを握っています。
「すべて国民は、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」のであれば、学校自体はもちろん、親もそして社会にとっても、今の歪んだ学校を変えていくのが義務なのではないでしょうか。
投稿者 hoiku : 2019年11月08日 TweetList
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