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2019年11月01日
生物史を学ぶ意義
生物史を学ぶと、私たちもその進化の一端を担い、自然の一部であることに気づかされます。
自然を支配するのではなく、自然とともにどう暮らし、社会を営んでいくべきかを考える重要なきっかけを与えてくれるように感じます。
今回はその生物史を学ぶ意義について考えてみます。
以下(https://newspicks.com/news/2204672/body/)より引用します。
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進化生物学を学ぶ意義はどこにあるのか。
それは、進化や淘汰といったフレームワークを使うことで、現代人が自明としている社会制度や文化制度の根本を違う角度から見るところにある。
例えば、人類の進化の歴史を少しでも知っていれば、人類の繁栄を支えたのが共同繁殖、つまり、共同体の中での子育てであることが容易に理解できる。
この共通認識が社会に浸透していれば、子育てを若い夫婦だけに担わせる危険性がもっと議論されるだろう。
私たち人類はもともと共同で子育てをしてきた生物なのだから、おばあさんの力を活用したり、自発的な自助グループの構築を支援したりするような動きがもっと見られてもいいはずだ。
こうした知見は、目前にある超高齢化社会に対処するツールとしても活用できるだろう。
ビジネスにおける商品開発や、社会を変えるための制度設計など、私たちが自らを取り巻く何かをアップデートしたいと考えたときにも、生物進化のフレームワークが使える。
生物がある行動をとる「インセンティブ」を学ぶことで、人はなぜ争うのか、どんなに頑張っても共産主義社会が長続きしないのはなぜか、といった問いに答えを出すことができるからだ。それによって、より生物学的に「自然な」制度設計が可能になる。
次に、進化生物学を学ぶことで実感できるのは、「人間」という存在のインパクトだ。良かれ悪しかれ、人間は地球環境を不可逆的に変化させている。
例えば、アリやシロアリは地球のランドスケープをダイナミックに変える生物として知られるが、その規模をはるかに超えて、人間は山を削り、川を埋め、地面を覆い隠してきた。
しかもこの動きは、直近100年の間で急速に進んでいる。地球にとってはとんでもない異常事態だ。その異常さを客観的に測るための「基準点」となるのが、進化生物学である。
ある計算によれば、地球上の生命体のすべてが太陽エネルギーだけに頼って活動した場合、人間ほどの大きさの雑食動物が存続できる最適数は、1平方キロメートルあたり1.4人ほどだという。
実際には、地球上で生活する人間の分布数は1平方キロメートルあたり44人だから、いかに分不相応な繁栄をしているかが分かる。
生物の進化を知ることは人類が歩んできた長い歴史と、さらに長い歴史を重ねてきた地球環境の変化を知ることでもある。
壮大な尺度で人間の営みを見つめると、衝撃的とも言える発見や気付きをいくつも得られるだろう。すると、日常の風景の見え方は確実に変わるはずだ。
ちなみに、この例でも分かる通り、人間が繁栄すれば、必ず地球上から何かが失われる。敷衍(ふえん)すると、「すべての変化はトレードオフである」ということも、進化生物学は教えてくれる。
歴史上、現代ほど大多数の人間の生活が豊かになった時代はない。しかしそれによって、生活習慣病が人類の生命をおびやかすといった新たな苦難も生まれている。
私がアフリカに行った際には、「村の子どもたちが学校に通えるようになったのは良いことだが、森を知る子どもの数は減ってしまった」と嘆く声を聞いた。
森で暮らしていくためには、森の動植物の生態に関する知識が不可欠だが、そうした知識は失われつつあるという。
私たちの人生は有限であり、1日は24時間、一生は長くて100年ほどだ。何かを選択するたびに、失っていくものは何なのか。その事実を見つめる勇気を持たなければならない。
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生物進化の歴史を知れば今の社会、核家族の在り方がいかに異常なのかがわかります。
オスとメスの分化と役割を知れば、現在の男女平等がいかに不自然な観念なのKじゃがわかります。
生物史を学ぶとは自然の摂理を学ぶということ。そこから現代社会の問題を事実としてとらえ、答えに向かって追求していくことに他ならないのだと思います。
投稿者 hoiku : 2019年11月01日 TweetList
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