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2018年06月29日

子どもという枠にはめて見るから、子どももおとなも窮屈になる。

子供は大人顔負けの体力をもっています。将棋や囲碁の世界では小学生が大人を負かすことも珍しくありません。スポーツや芸術、ビジネスの世界でも中学生の頃から頭角を現す例が数多あります。

子供ながらにすごい!と思ってしまいますが、これって私たち大人が「子供」という枠にはめてみているからに過ぎないのではないでしょうか。

まだ子供だから、子供はまだ未熟だから・・・
こういった子供観が、逆に子供たちの可能性を見えなくさせ、削いでしまっているのかも知れません。

今回はこのような子供観について考えてみます。

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以下(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=84017)より引用します。
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■「子供」は当たり前の存在か?
 教育・子育ての問題について議論するときに気をつけなければならないのは、「子供」という存在が、果たして、「当たり前」で「普遍的」な存在か?という点だと思います。

 アリエスの「<子供>の誕生」を読むと、かつて、大人・子供という区別はなく、子供は「小さな大人」とみなされ、物心がつく年齢(現代で言えば小学生に上がる年齢)になれば、他の家や村での見習い修行を通じて、大人と同じように働き、扱われる存在だったことがわかります。小さいなりに体力や知識に応じた、課題・役割が与えられていたのです。

 生みの親よりは、親方の家庭=育ての親について実務をしっかり叩きこまれるわけです。当然、自分の子供部屋もプライバシーなどありません。
 今のように、子供だから、という理由でことさら特別扱いされたり、溺愛・甘やかされたりする、ということはありえなかったのです。

■「子供」の成立と学校制度
 現代のような「子供」が成立したのは、近代になってからです。
 特に、学校制度の普及が大きな役割を果たします。

 近代国家が成立すると、工業・商業・官僚制度の整備が国家間闘争の要になります。国力増強のために、子供を農漁村の共同体から引き離して、都市の労働力として標準語と最低限の教養を植え付ける巨大な組織=学校の整備が必要とされたのです。

 学校に行くようになった子供は、それまでと違って、次第に働かなくなりました。
 後に教育期間は長くなっていきましたから、労働経験のない期間も長くなるわけです。こうして、働かない「小さな大人」=「子供」という特殊な身分が生まれ、いわゆる「青春」という概念や、近代的なモラトリアムが生まれました。

 また、子供が親の独占的な愛情の対象、溺愛の対象となるようになりました。かわいがる、庇護する、甘やかす親が、こうして誕生し、家庭のプライバシーは絶対化されました。人権概念が普及すると、「子供」という特殊な階級のための権利、人権が制度化されていきます。

 このような、小さいから、というだけで外圧から隔離し、特権をあたえるようになったことが、現代、様々な精神破壊、不安、悩みをはらんだ子供を大量生産してきた大きな原因だと、私は考えています。保護していたはずの子供にとっても大きな不幸だったと思います。

■「子供」とは旧観念では?
 教育とは、常に何らかの「外圧」の必然性がなければ成立しません。
 大人と同じように働いていた時代の子供は、当然、成果を出せるようになるために、必死で学んだでしょう。闘争圧力、期待圧力の存在は、精神回路の発達を促したでしょう。

 上記のような現状を突破する一つの方針として、農業体験や農村の全寮制学校には強い可能性を感じます。

> 子供達のひ弱さや、精神欠陥の激増、生活の知恵の欠如等の現状を受けて、自然体験・農業体験が拡大しています。
> 教育の場は生産の(換言すれば生活の)場になければならない。特に発達段階にある子どもたちの本能回路から共認回路・観念回路を強く育成していくためには、自然外圧の強くかかる場が有効ではないかと思います。
  
 私は「子供」は一つの旧観念なのだと思います。
 少なくとも、近代以降でしか通用しない特殊な観念だといえます。だとすれば、子供も大人と同じように、「社会の当事者」(65804 今井さん)として期待をかけることはできるはずです。その期待が、ひいては、子供たちの勉強意欲につながるのではないでしょうか。
 教育の場でも、「旧観念無用」が求められる一例だと思います。
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子供という概念は近代以降のもので、それ以前は小さなおとなという存在だった。現代人の目から見ると驚きです。
でも考えてみれば、日本でも童といわれたのは7歳くらいまでのことで、そこから先は一家の一員として、家のこと農作業を手伝う立派な「小さなおとな」でした。

今は中学生くらいはまだ子供、下手をすると高校・大学にいっても子供扱いするような、「大きな子供」が沢山います。

子育て、子供の教育、子供の躾・・・悩ましい問題がいっぱいありますが、子供ゆえに正しく育てなければ、という脅迫観念が問題をややこしくしているのかも知れません。

子供という固定観念に縛られず、小さなおとなとして向き合ってみるのも一考ではないでしょうか。

投稿者 hoiku : 2018年06月29日 List   

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