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2018年03月23日

なぜ学校の勉強は役に立たないの?~一貫性のない知識の断片では現実課題に立ち向かえない。

社会に出て思うのは、学校で習ったことで役に立っているのは漢字と加減乗除くらい。長い年月をかけて習ったこと、試験のために覚えたことは見事に忘れてしまっています。

子どもの頃は何の疑問も持たず、先生の言うとおりに授業を受けていましたが、あの十数年間はいったい何だったんだろう?と思います。

今回はそんな学校の勉強がなんでやくに立たないのか?
を考えて見ましょう。

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以下(http://homeshoolclub.blogspot.jp/2015/01/blog-post_7.html)より引用します。
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一貫性の誤謬
学校は子どもにとって大事なことを体系的に一貫性を持って教えている。と言われる。

果たしてそうだろうか。実際は学校の教師は全く脈略もなくバラバラに教えている。

形容詞、設計、楽器、体育、コンピュータ言語、平安時代の歴史、二次方程式、植物の種、これらが脈略もなく限られた時間に次々と子どもたちは黙って聞いて覚えないといけない。一切の異論は許されない。このどこに一貫性があると言うのだろう。

学校の論理は、子どもが何かに夢中になるより、表面的な知識(国語、数学、理科など一通り覚えておくべきこと)をいかに詰め込むかということだけだ。

まともな人間が必要とするのはバラバラの事実ではなく、意味だ。

すべての事象には順序がある。朝起きて昼から夜に流れる時間、農作業には種まきから雑草取り、そして収穫に至る流れ、晩飯の準備、すべてに流れがある。そこでは一つ一つに正当な理由があり、前後との結びつきにより全体が完全に調和している。

覚えるべきは正当な理由だ。それを覚えるのは因果関係だからいともたやすく覚えられるし即効役に立つ。

ところが学校の教育はどの授業も、時間割も、どれも順序が入り乱れていて、どこにも一貫性がない知識の断片だ。子どもたちが学ぶことは魔法の呪文か、お経を丸暗記するようなものである。

子どもたちはこうした混乱した授業時間を自らの運命として受け入れるしかないのである。

教師たちはどの科目においても実務の経験が(ほとんど)ない。子どもはそのことを知らずに金科玉条のように覚えるしかない。社会に出るとこれらの知識は役に立たない。

今の私なら逆ねじを喰わせて先生を立ち往生させることなぞいとも簡単である。なぜなら、仕事上どれもまったぁぁぁぁぁく、役に立たないから。大事なことはもう一度頭から勉強しなおしたし、どうでもいいことはどうでもいいから。

そんなつまらないことに10年以上も付き合わされ、そのつまらない知識の断片を捨てて再構築するためにさらに10年もかかってしまった。結果的に6歳から26年も回り道を余儀なくされた。しかも頭が柔らかくて吸収力の高い貴重な時期をだ。 

――俺の青春を返ぇせぇええぇぇ――

と言いたい。

私で懲りたので、息子は小学校へ行ったことも、授業に出たことも、宿題もテストもない。(鬼太郎みたい)だから能天気に毎日遊びまわっているが、普通の学校に通っている同年の男子が読めない大人の本を読んで、数学や、トランジスタなどの電子回路の勉強をしている。
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物事には全て意味がある。
例えば農作業では季節に種をまくのがいいか、土はどういう状態がいいか、突然の台風にどう対処するか、日々の世話は、収穫は何人で協力すればいいか・・・目的があり、段取りを組み、うまくいかないときは修正し、仲間と協力する必要があります。

遊びも仕事も全く一緒。こうした中で意欲や追求力や仲間との関係力を身につけていきます。
しかし学校にはテストの点でつけられる成績しかなく、現実の目標や成果は存在しません。そして実体験のない断片的な知識のみ与えられ、その意味もわからず呪文のように暗記しているだけなのです。

学校で習うことは社会で求められる能力、現実の課題と全く繋がっていないのです。

投稿者 hoiku : 2018年03月23日 List   

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