| メイン |

2017年11月10日

学校教育がもたらす若年層の自殺

『政府は30日の閣議で、2017年版の自殺対策白書を決定した。人口10万人当たりの自殺者数を示す自殺死亡率を諸外国と比較し、日本は6番目に高かった。若年層の自殺と事故の死亡率を先進7カ国で比べると、自殺が事故を上回ったのは日本だけだった。白書は「若い世代の自殺は深刻な状況にある」としている。』(2017/5/30 日本経済新聞)
(https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG30H2W_Q7A530C1CR0000/)
厚生省の統計によれば、平成27年の若年層の自殺の原因は、19歳以下では学業不振や進路に関する悩みを主とする「学校問題」が最大で、19歳以下の自殺者は554人となっているとのこと。

今回は自殺と学校教育の関係について考えて見ます。

 にほんブログ村 子育てブログへ

以下(http://homeshoolclub.blogspot.jp/2013/05/blog-post_22.html#more)より引用します。
——————————————
15~34歳の世代で死因の第1位が自殺となっているのは先進7カ国では日本のみだそうだ。世代を通じても日本の自殺は異常に高い。日本の青少年のいじめや体罰、大人でも倒産など、比較的簡単に自死に至る。日本は宗教的に自殺に対する罪悪感が薄いというのはあるだろうが、それにしても自殺がこれほど多いということは何かしら日本独特の原因があると考えることができるだろう。

なぜか?、それを考えてみたい。

私はその原因を教育に求めてみた。現在、若者たちには常に共通一次に代表されるマークシート型解答が求められている。つまり、家庭も学校も子どもたちに子どもたちにマークシート型教育を施している。言い換えると、正解が一つはあるという問題しか教えない。というより一人一人にきめ細かく教えていればたちまちほかの学校のマークシート型教育に負けてしまう。だからどうしてもそうならざるを得ない。言い換えると単一目標型教育と言えるかもしれない。

文科省や学校や教師は「考えさせる授業」と謳うが、実際にはそんな余裕はない。それに「考えさせる教育」という言葉も自己矛盾をはらんでいる。考えるという行動は自発的(自由)な思考からしか生まれないと私は思う。考えさせるという言葉には考えることを強制している匂いがする。強制させられたとたんに自発的思考ではなくなるのだから、考えさせるという言葉は自己矛盾を孕んでいると言わざるを得ない。自分の意思で考えなければ考えることにならないことが教師たちにはわかっていないだろうか。

たとえば科学の実験の場合でも、必要な機材も手順もすべて学校が用意してあらかじめ想定した体験をさせる場でしかない。本来、実験は試行錯誤を繰り返して、時には大怪我をして、自分の体が理解したとき、はじめて学習したと言えるのではと私は思う。

そんな実験でも子どもが深く知りたいと考え込んでいると「何をぼんやりしている。さっさと片付けなさい」と叱られてしまう。

すべての勉強で同じことが言える。子どもたちを机の前に座らせて、無理やり開けた口に誰かが必要と決めた栄養素をねじ込んでいる。それが本人にとって必要であるかどうかの意思は全く無視されている。このことは学校のどこを直せば治るという問題ではなく、日本の教育制度そのものが持つ矛盾であり、子どもはここから逃げるしか方法がない。

いまの教育制度の中では、この事態が自分にとって必要なことなのだと思い込むようにしないと子ども達は生きていけない。それは虐待されている子どもが親は自分のことを思ってやっていると思い込んでしまうことに似ている。

しかし、そのことは子どもたちにとって自己欺瞞でしかありえない。虐待された子供が精神的に必要以上の苦痛を抱え込んでしまうアダルトチルドレンの症状はそのまま学校にも当てはまる。

学校教育を通じて子どもたちは問題に対する正解をひたすら覚えるという作業を12年間も続ける。大学も含めると16年間そうやって覚えこんだことで「必ずどこかに正解があり、それが分からない私は劣っている」という意識となる。そうでない人は社会を破壊に導く官僚や経営者になる。

社会には正解はない。教室の中の人間関係にも正解はない。

学校は子どもたちに必ず正解があると教えるがそれは学校の教科の中にしかないということは決して教えない。学校へ行くことで真面目だがひどく折れやすい日本人の性格を作っていると思っている。
————————————–
問題に対する正解をひたすら覚え続けても、社会に出ればどこにも正解はありません。人間関係の中にも正解はありません。暗記脳ではここで思考停止になるか、答えを出せない現実を前に自己否定に陥ってしまうのでしょう。

学校のいじめ自殺も、学校の外に目を向けることさえできれば解決の糸口がつかめるかもしれません。しかし学校が全てと思い込まされている子供たちにとってはどこにも逃げ場のない地獄となってしまうのだと思います。
—————————————
昔はそれほどひどくはなかった、ここ20~30年の間にひどく変わってしまったと私は思う。今20歳前後の若者の親は50代だろう。この50代という世代は高度成長期に青少年時代を過ごした人たちだ。多くのの日本企業が高度成長して大企業となって、ジャパンアズナンバーワンと言われた時期だ。この親たちは大企業こそが生活を保障してくれると信じ込んだのは当然だが、それを子どもたちにも押し付けているところに問題がある。

ここ20年ほどで国際化と情報化が社会を激変させ、50代の親たちの考えはもはや通用しない。にもかかわらずというか、だからと言うか、子どもが優良企業に入社することがすなわち人生の成功につながると思い込んでいる。

学校と親の両輪が子どもを単一目標に追い込んでいて、子どももそれをまともに信じている。でもいくら信じても、それが報われることはない。もはやどの企業もただ働く人を必要としていない。必要なのは肉体労働か、高度な知的独創力である。事務職は最早なく営業職、管理職など中間的職業はいずれなくなる。学校はその中間の人材を相も変わらず大量に送り出し、そこにギャップが生まれている。(参考「機械との競争」)

企業がほしいのは問題があってその正解を出すことではなく、問題を作る力である。チェスも将棋もコンピューターに勝てない時代になり、答えを出すのはコンピューターのほうが速くて正確になって来ている。コンピュータにできないのは問題を作ることで、この流れはこれからも変わることなく、さらに強く激しくなって行き、これまで想像もできなかった過激な社会が始まろうとしている。

ほんのわずかの問題能力を持つ者だけが世界の富を独り占めしていく。

コンピュータは決して問題を作れない。問題を作る能力には夢が必要になる。夢は人しか持てない。夢を持たない人が自分の未来を見ることはできない、だから自分の夢を空想することから始めたほうがいい。学校教育によって夢が与えられることはない。

若者たちに言いたい。早く目を覚ますべきだ。

自分が見るべき夢は自分がひねり出すしかないのだ。
——————————————
学校と学歴信仰に染まった親が一緒になって勉強を強制し、子供たちから生きる力を奪っている、これが現実なのではないでしょうか。

親の世代の想像をはるかに越えて、社会は大きく変化しています。その中で学歴信仰はすでに崩壊しています。にもかかわらず親も学校も旧態依然とした古い価値観を押し付けていることに気づきません。

フリースクール、ホームスクールなど、学校以外の場所にも大きな可能性が開かれています。未来を生きる子供たちのためにも、私たち大人は可能性を示していかなければなりません。

投稿者 hoiku : 2017年11月10日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2017/11/5863.html/trackback

コメントしてください

*