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2017年07月21日

子どもは天の才(情緒感覚)をもって生まれ出てくる。

「情緒をもって対象をみること、探求し続けること。」

天才数学者岡潔は「情緒」をもって数学だけでなく、教育、西洋人の意識構造や幼児期の数学体験まで、広く深く探求を続けた人でした。

世に天才というと、知性、知能の最先端に到達した人、というイメージがあります。しかしものごとを深く突き詰めた人が到達する境地が原初的な「情緒」の世界であるというのは意外です。

しかも「情緒」は生まれながらにして誰もが持っているものだとしたら・・・
今回も引き続き、岡潔の言葉から考えてみたいと思います。

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以下(http://cds190.exblog.jp/3936918/)より引用。
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「教育でどんな子でも作れるというのではない。本当は生まれるのは大自然が人をして生ましめているのであって、各人はそれを自分の子と思っているが、正しくは大自然の子である。それを育てるのも大自然であって、人をしてそれを手伝いしめているのが教育なのである。
 それを思い上がって、人造りとか人間形成とかいって、まるで人造人間か何かのように、教育者の欲するとおりの人が作れるように思っているらしいが、無知もはなはだしい。いや、無知無能であることをすら知らないのではないか」

「教育は、生まれた子を、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であって、それ以上によくすることはできない。これに反して、悪くする方ならいくらでもできる。だから教育は恐ろしいのである」
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天の才を持って生まれた子どもたちの成長を手伝うのが教育で。無知な子どもを教育する、という現代の教育スタンスがいかに傲慢であるか、そして子どもたちの天分をいかに損なっているか、身につまされる思いです。

そして子どもたちが持って生まれた天分(=情緒感覚)を次のように語ります。
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「人には心が二つある。
 心理学が対象にしている心を第一の心ということにすると、この心は大脳前頭葉に宿っていて、私というものを入れなければ動かない。そのかわりそれを入れるとワライカワセミのようにうるさい。私は愛する、私は憎む、私は嬉しい、私は悲しい、私は意欲する。この心は必ず意識を通す。

 ギリシア人も欧米人もこの心しか知らないし、大脳生理学もこの心のことしか言っていないのであるが、日本人にはそんなはずがないということが直ぐにわかる。
 秋風が吹くともの悲しい。日本人は誰でもそうである。芭蕉は、『秋風はものいはぬ子も涙にて』と言っている。このもの悲しさを感じる心は無私の心でなければならない。

 日本人は誰でも他(ひと)のまごころを感受することができる。この心もまた無私の心でなければならない。だから第二の心はたしかにある。この第二の心は大脳頭頂葉に宿っていて、無私の心であって、そのわかり方は意識を通さない。
 第二の心が自分である。この心は不死である。このことに本当に気付いている人を目覚めた人と言い、そうでない人を眠っている人と言う」
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いわゆる近代思想や近代科学は第一の心、自己を中心にした世界観。近代教育はこの第一の心を強制的に刷り込んでく行為だから、もって生まれた第二の心(=情緒感覚)がどんどん封印されてしまうのも当然でしょう。

そして第二の心の原景がどこに見出せるかというと、
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「第二の心に住むというのはどうすることか、第二の心に住んでいる人はどんな風か、それを知るには赤ん坊を見るのがよい」
「それはどんな世界かというと、一口に言えば懐かしさと喜びの世界である。わかり方は、まだ殆ど意識を通さない。じかにわかって、それが直ぐに表情や動作に出る」
「外界は見るもの聞くもの、皆懐かしい。人の顔を見れば人懐かしく、天井を見れば天井懐かしく、音楽を聞けば音楽が懐かしい。此の懐かしさの基盤から喜びが沸き出るのである」
「それで私は話し掛ける。『おじいちゃんね、汽車ね、ポッポーと、ポッポーと行ったんよ。雨ね、コンコー、コンコーッと降ったんよ』。
そうすると孫は言葉なんかわかるはずがない。ところがわかるのである。目を細めて手足を降り動かし、声をあげて喜ぶ。

嬰児は意識を通さないでわかる。それが大人になると意識を通してでなければわからなくなるかというと、そうではなくて、意識を通してわかるという分かり方が、網の目のように蔽ってしまうから意識を通さないでわかるわかり方に、注意が行かなくなってしまうのである」
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岡潔は嬰児のもつ天の才、「意識を通さないでわかる」情緒感覚を失うことなく、それが故に探求を続けて大きな業績を残すことができたのだと思います。

一方で近代教育は、総じて子どもたちの天の才に蓋をする行為を続けてきました。学校教育については次のように述べています。

以下(http://ameblo.jp/terra-gaia/entry-12188922226.html)より引用。
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「ここらで小学校教育についての私見をまとめてみよう。まず、義務教育は小学校六年間だけでよいと思う。これは一口にいえば、情緒の調和をたかめることによってその人の人格が作られるのを援助する時期である。この時期の教育のよしあしはすぐ顔つきに表現されると思うから、教育者はそれによって大自然を援助する手を加減していくのがよい。
(…略…)
数学教育について一言したい。数学は人の心からとって知性の文字板に表現する学問・芸術の一種である。したがって心の中にある数学を開発することが数学教育の任務である。しかし、今の教育を見ると、数学というものをわかって教えているのだろうかと疑わずにおれない。だいたい、数というものが心の中でわかっておればこそ、数学が数えられるのである。幼児の発育を見ても、数がわかるのは時空や自然がわかるより先である。数学が何かは私にもよくわからないが、心の中にその元があることは確かであって、自然から教わるべきものではないのである。

してみると、自然によりかかって数学を理解させるやり方は間違っている。黒板に写した図式や数式は自分ではなくて、自分と対立する自然物になるということをみな知らないでいるらしい。色つきのチョークやグラフなど、色彩を使って教えるのもなるべくやめたほうがよい。相当に子どもの感覚が動かされ、情緒の表面に荒い波が立つからである。本当は机に向かって、本を見ながら、運算しながら勉強するのをやめて、散歩しながら心の入り口でやるとよいのである。事実、古来の大数学者はみなそれでやっている。
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情緒の調和を高めること。心の中にある数学を開発すること。散歩しながら心の入り口でやる「数学」。

実感としてとても分かる気がします。けど具体的にどうしたらいいの?と思ったとしたら、それは近代教育によっての情緒に蓋をされたままだから。

実感で「わかる」を意識のうえで「わかる」ようになること。まさに情緒の心をもって、これからの数学、教育のあり方を探求すること、が重要なのだと思います。

投稿者 hoiku : 2017年07月21日 List   

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