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2017年07月14日

学問は頭でするものではない。情緒をもって対象をみること、探求し続けること。

数という概念は観念によって人が発見したものだと思っていところこんな記事がありました。
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『「数覚」とはなにか~生物が持つ数字的感覚
数学的センスのようなものだと予断してたら、大きく外れた。味覚や視覚のような感覚の一つとしての「数覚」という意味なのだ。そして、驚くべきことにこの数覚、生得的なものとして扱われている。つまり、この数学的感覚は生まれながらにして備わっているというのだ。ええー、数学は得手じゃなかったんだけど……「数学は暗記科目」として逃げてたわたしには、にわかに信じがたい。

さらにこれ、人間だけのものでないそうな。数を数えたり、グルーピングしたり、量の比較をするといった操作は、生物の遺伝レベルで仕込まれているという。「数学」なるものを人類の財産として崇め奉っていたわたしには、ちょっとした衝撃だった。人知を超えた数秘術から、より生臭い存在としてつきあえそう。』
(http://blog.livedoor.jp/iiotokoiionna/archives/52242052.html#more)より
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で調べてみると、生後数ヶ月の赤ちゃんでも1+1=2であることがわかっていることが実験で確かめられているそうです。本能レベルに刻まれた「数」が、どのようにして今私たちが知っている「数学」に繋がっていったのか?

今回は天才数学者といわれる岡潔の言葉から考えてみましょう。

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以下(http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2011/10/%E6%95%B0%E3%81%AE%E8%AA%8D%E7%9F%A5.html)より引用
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以前、アメリカの番組で、生後数ヶ月の赤ちゃんに2体の人形を見せ、それを布で隠し、その中から1体を持ち去り、その後布を取り払ったときにそこに人形が2体残っていると、びっくりした顔をするというのを見たことがあります。そのとき、赤ちゃんは、2-1=1という引き算を理解していると言うことでした。同じように、乳児の認識には1+1=2にならなければ驚くのですが、ボールが人形に変わったりしても驚かないそうです。それは、数については生得的な理解で問題ないが、あるものが同一かどうかの理解は、同じものが視覚的にかなり異なって見えることがあるので、様々な見え方の学習の後に同一性の認知が発達するということだと説明しています。
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人は生まれながらにして原初的な数の概念を持っている。動物でも外敵や獲物といった外圧状況の認識は生死を分ける課題であり、本能レベルで数を認識できることは十分考えられます。

また天才数学者といわれる岡潔も数学の視点で次のように述べています。
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岡は「自然数の1が何であるか数学は何も知らない」と著書で繰り返し書いています。数学の始まりの数である「1」が何であるのかは議論しなくても、脳の中でありありと分かる。逆に「1は何か」を数学的には定義できないし、「1」を説明しようとするあらゆる試みは「1」の直感を頼りにしてしまっています。だから数学は数学自身によって支えられているのではない。計算や論理に先だって数学を支えているもの、それは実感であり、情緒であると言っているのです。
(http://www.sankei.com/west/news/140301/wst1403010082-n1.html)より
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情は常に働いていて、知とか意とかはときに現れる現象だから、情あっての知や意です。「わかる」というのも、普通は「知的にわかる」という意味ですが、その基礎には、「情的にわかる」ということがあるのです。

わたしは数学の研究を長くやっていました。研究中は、あるわからない「\(x\)」というものを、どこかにないかと捜し求めます。捜し求めるというより、そこにひたすら関心を集め続ける。そうすると、「\(x\)」の内容がだんだん明らかになってくる。ある研究の場合は、これに七年くらいかかりました。

「\(x\)」がどういうものかわかってやるのではありません。わかっていたらなにも捜し求めることはない。わからないから捜し求める。関心を集め続けるのです。

わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。
(https://kimu3.net/20160915/5134)より
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人の情緒というものを呼び起こして、それを育てることが重要であると岡潔は述べている。学問は頭でするものだという一般的な考え方に対して、情緒が中心になって学問を行うべきだと主張する。岡潔は情緒の重要性を以下のように述べている。
「人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。」
(http://www.rcc.ricoh-japan.co.jp/rcc/breaktime/senjin/100622.html)より
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本能次元の認識を土台に、未知の対象に向き合い探索しつづけることでわかってくる。しかも探索しているときはすでに潜在思念レベルでその可能性・答えを掴んでいる。発見はその情的なものが知的に明らかになる過程だというのです。

人類が自然を対象とし、情を向ける(自然に同化し、感じとる)ことで、その背後にある摂理を究明する過程。それば数学そのものであり、同時にあらゆる科学認識の土台になっているように思います。

岡潔はこの情緒について次のように説明しています。
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そして情緒を説明するのに、スミレの花をほめた芭蕉の句「山路来て何やらゆかしすみれ草」を紹介しています。スミレの花を見るとき、それが小さくて紫色だと見るのは感覚で、スミレの花はなんとなく慕わしいなぁとみるのが情緒であり、「日本人は感覚を見ているのではない。スミレという情緒を見ている」と語っています。
(https://www.furusato-tax.jp/gcf/122)
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数学は論理的な学問と思われていますが、たぶんそれは西洋的な発想でしょう。日本人にとってなじみのある「情緒」こそが、数学をはじめあらゆる探索・追求の源泉なのかも知れません。

日本の和算が、西洋に勝るとも劣らない発展を遂げていたことは有名ですが、当時の和算家や愛好家たちは、俳句で自然を愛でるように、算学で摂理の世界を愛でていたのかも知れません。

 

 

投稿者 hoiku : 2017年07月14日 List   

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