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2017年06月27日

共同保育所の歴史と現在2~乳児保育は必要悪と言われた時代があった

続きです。共同保育の草分け的な存在の愛知県小規模保育所連合会のHPから、共同保育の黎明期を見てみます。

あいち保育共同連合会

愛知県小規模保育所連合会は、1974年(昭和49年)に発足しました。

そして2015年4月より、子ども子育て支援新制度が施行されるにあたり、40年間馴れ親しんだ名称を改め、「あいち保育共同連合会」として新たなスタートを切りました。

1960年代 産休開けからの乳児保育の切り開き~ 愛知に共同保育所 誕生

東京をはじめとした共同保育所づくり運動の中で、愛知でも共同保育所(以下共保という)が誕生し、乳児保育とりわけ産休明け保育の切り開きがはじまりました。

それは、経済的な要因と女性の自立の高まりの中で、働く女性が増加した時代でもありました。女性の働く権利と子どもの発達保障を、自分の子どもだけでなく、たくさんの人と手をつないで育てあう、「共同」の力で考え実践しようという、保育のうねりが高まったのです。

しかし、“乳児は家庭で”という育児観や家庭第一主義の保育政策のもと、0歳児からの集団保育に社会は否定的で、根強い批判もありました。乳児期における集団保育の良さを、子どもたちの育ちゆく姿を通して実践的な立証が行われました。例えば「小さくても子ども同士が関わりを求め、その中で子どもが育つ」ことや、「専門職としての保育者による安心できる保育の専門性」などを指し示していきました。集団保育の積極面を強調したとはいえ、家庭保育の重要さや一人ひとりの発達の保障を軽視したわけではありません。これらの集団的保育の構築は、子どもの発達を科学的に見つめる実践のスタートとなりました。

必要悪ではない乳児保育の研究

社会的に集団保育の否定論が強かっただけに、乳児の集団保育実践を積み上げ理論化することが、社会的にアピールする上でも必要でした。

国や自治体の保育責任を「児童福祉法の完全実施」という文言で迫っていくものでした。各共保の保育者たちで、乳児の発達、日課やカリキュラムづくり、健康・たんれん・病気などの学習と交流が行われました。手本となるものがないので、とにかくみんなで学び合い実践し、理論化をすることに力がそそがれました。土曜日に共保の職員が集まり、「乳児保育研究会」「健康管理の学習会」などが定例化され、その間は父母が交代で保育にあたり、親も保育を支えていました。

まさに「親とともに」の保育づくりが、ここにつくられていったのでした。

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「必要悪だった」酷い言われ方ですが、当時何が起こっていたのでしょうか?

共同保育が始まったのは多くが団地の中でした。地方から都市へ労働者が集められ、膨れ上がる人口の居住先が団地でした。彼らの多くは給与労働者、つまりサラリーマンであり、地縁血縁から切り離された根無し草です。結婚して子どもを設け、木造アパートから引越し、憧れの近代住居=団地に入居しますが、夫婦とも働く場合は預ける先がありません。根無し草ではありますが、同じ状況の同世代の多くが同じ団地に住んでいます。そこで、集まり、何とかしようと行政に働きかけ部屋を確保し、共同保育が始まるのは自然な流れだとも思います。

しかし、乳児は母親が育てるのが当たり前とされていたのです。

1970年代 乳児保育の確立・福祉充実の時代
革新市政で福祉が充実 小規模連誕生

国の「保育所整備5カ年計画」により、認可基準が60人以上から30人以上に引き下げられることになり、認可の道が切り開かれました。市内のいりなか・たんぽぽ保育園の認可に伴い、父母や保育者たちの交渉で、名古屋市は産休明け児の措置を認めました。さらに父母・地域の要求に根ざした民主的運営の保育所を守り発展させるため、1974年に認可園7園で愛知県小規模保育所連合会(以下小規模連)を結成しました。

名古屋市では1973年に市民が革新自治体を誕生させ、保育の運動にも光がさしてきました。ドーナツ化現象により、保育要求は県下へと大きく広がり、小規模保育所は地域の保育運動の拠点となってその輪を大きくしていきました。全国的にも「ポストの数ほど保育所を!」と保育所づくり運動が巻き起こりました。
共保の学びを保育研究へ やり急ぎ傾向の見直し

産休明け・乳児保育、長時間保育の内容案を出すことを目的に主任会(のちに保育部会となる)が誕生しました。共保時代に積み上げてきた実践を科学的に見直し、0歳児からの系統的な保育をより豊かに発展させることを目指し、実践交流や共同研究活動を進めていきました。

保育所での乳児保育の良さを強調するあまり、早くから離乳食を始める・身辺自立を早くから促すなど、「やり急ぎ傾向」もみられ、のちに見直していくこととなりました。“這えば立て、立てば歩め”というような先へ急がせる働きかけではなく、その時期その時期を充実して過ごせることが次へのステップとなるような働きかけへと変わっていきました。

各園のカリキュラムは様々でしたが、“子どもに育てたい力”を目標にして発達論的カリキュラムに統一して作成しました。この取り組みに実践交流会の報告を加えて1978年7月「0歳児の保育計画と実践」を発行しました。
実戦交流会の開始

1975年に初めて、0歳から2歳までの実践を持ち寄り年齢別に「実践交流会」を行いました。1977年からはテーマを「あそび」とし研究を重ねました。

あそびは子ども自らの自発的で自主的な活動であり、あそびの指導では、面白さをふくらませることの大切さなどがおさえられました。0歳児からのあそびの種類と系統性や、子どものとらえ方、保育の指導がこの頃から深くとらえるようになりました。特に、0歳での「いないいないばあ」あそびにはじまり、1・2歳の「まてまてあそび」そして「つもりをもったおいかけあそび」への発達が、実はルールのある鬼ごっこへ発展していく基礎になっていることも当時は新鮮な発見と学びでありました。

この実践交流会の成果をまとめ「乳幼児のあそび」を発行しました。また障害を持った子どもたちの受け入れや母子通園の受け入れをするようになり、その実践を交流し1984年『かぎりない発達をめざして早期保育の場を!』を園長会・主任会で発行しました。

 

投稿者 hoiku : 2017年06月27日 List   

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