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2016年03月31日

大人が教えることなどない~先輩に学び、後輩を導く「郷中教育」

前回は「子育て」ならぬ「子守」について考えてみました。年齢でいえば1~3歳くらいまででしょう。ではそれから先はどのような子育て、教育が必要なのでしょうか。

明治以降「子育て」という考えが生まれ、戦後の子育て・教育事情は混迷の度を増してきています。ならばそれ以前の日本では、どのように子どもを守り、育ててきたのでしょうか?

日本にはどのような子育て観、教育方法があったのか?幼少期から成人するまでの様子をたどってみることにしましょう。

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写真は(http://www.uchiyama.info/oriori/kanri/kanri/goju/)よりお借りしました。

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■ 子どもは神からの授かりもの
以下(http://blog.goo.ne.jp/cuckoo-cuckoo10/e/cefbcae743d9d598ee8802c5effc7e7e)より引用
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埼玉県秩父地方では「7歳までは神の子」「7~15歳は村の子」「15歳以上は村の人」という。
 これは7歳まで生き延びるのが大変だった時代の名残もあると思われる。事実、7歳になるまで祭事が多く存在し、子どもの発育・成長を喜びながら大切に見守ってきたことの表れであろう。
 伝統的な日本人の認識では、子どもは決して親という個人のなにものかではなく、社会的な集団の一員であり、ことに7歳まではその社会全体が注意深く見守るべき「授かりもの」であった。今日の私たちには、そういう意識が欠落してきていると云わざるを得ない。
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まさに子どもは「授かりもの」で「守る」べき存在でした。そしてこの年齢を経て集団の一員となった子どもたちはどう育っていったでしょうか。薩摩藩の郷中教育を紹介します。

■先生は仲間~子ども同士で教えあう「郷中教育」
以下(http://washimo-web.jp/Report/Mag-Goujyu.htm)より引用
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郷中は、青少年を『稚児』(ちご)』と『二才』(にせ)に分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)などを通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。 

[およその年齢構成]
○稚児(ちご) 小稚児(こちご) ・・・ 7~10歳
       長稚児(おせちご) ・・・ 11~15歳
○二才(にせ)            ・・・ 16~25歳
○長老(おせんし)         ・・・ 25歳をこえる先輩

稚児は年齢によってさらに、小稚児(こちご)と長稚児(おせちご)に分けられ、稚児のリーダーとして稚児頭(ちごがしら)がいました。また、二才のリーダーとして二才頭(にせがしら)がいて、二才と稚児の面倒をみました。
 
稚児と呼ばれる武士の子どもたちは、毎日早朝、郷中内の先生の家へ走っていって本読みを習い、家に帰ってくると朝食までそれぞれ本読みの復習をしたり家事を手伝ったりして過ごします。
 
朝食がすむと今度は、馬場と呼ばれる広場や神社の境内などに集って、馬追いや降参言わせ、相撲、旗とりなどの山坂達者によって身体を鍛えます。午後は、共に誘いあって、先輩や先生の家(復習座元)に集まり読み書きの復習をします。その後、稽古場へ行き夕方まで、剣(示現流)、槍、弓、馬術など、武芸の稽古を行ないました。
 
長稚児たちは、夕方から二才たちが集まっている家(夜話の座元)に行って、郷中の掟を復唱したり自分たちの生活を反省したりします。武士の子としてよくない行いがあれば二才たちから注意を受け、場合によっては厳しい罰を受けることもありました。
 
武士の子どもたちは、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾・武芸を身につけ、勉学に勤しんだのです。年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるなということなどを、人として生きていくために最も必要なこととして教えました。
 
二才同志は、互いに戒めあい、修身の道に各々自重するとともに、二才頭を中心にして互いに熟議し、郷中に起る一切の問題を処理しました。二才たちの手でどうしても処理しかねる時には、長老を訪ねて適宜指導を仰ぎました。このように、郷中教育は、集団のなかでおこなわれ、教師のいない、異年齢によって行われた自治的な教育であったことを特徴としました。
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最近は縦割り学級や、グループ学習を重要視する学校も現れていますが、実は学校ができる以前から、子どもたち同士の自学自習システムがあったんですね。
郷中教育は薩摩藩の武家教育として有名ですが、同じ時代の農村でも若者衆などが組織され、村の自治や、年長者が子どもたちを指導する仕組みがありました。
学校がなくても、というか学校なんかないからこそ、自主的に学びあう環境がつくれたのかもしれません。
そして、その中身のすごさは・・・

■「どうする?」を仲間で追求する「詮議」

以下(http://www.excite.co.jp/News/column_g/20130128/Shueishapn_20130128_16824.html?_p=2)より引用
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対話重視という意味で、郷中教育の中で特に重視されたのが「詮議(せんぎ)」というメソッドでした。今でいう「ケーススタディ」で、起こり得るけど簡単には答えが出ないような状況をいろいろ“仮想”し、その解決策を皆で考え合う訓練です。

例えば「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか」とか、「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。向こうから一艘(そう)の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の敵(かたき)だった。どうするか」とか、「道で侮辱された。どうするか」といったリアルな設問を次々と挙げ、各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論する。「ハーバード白熱教室」みたいですよね。あの番組は日本でも大人気でしたが、日本人のDNAに、アメリカより先にこれをやってきた記憶があるとさえ思えます。
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明治に入り、列強諸国と対等に渡りあえる人材を日本が擁していたのは、このような教育システムがあったからこそなのです。そう考えると、近年の弱腰外交、国内政治の低落振りを見るにつけ、明治以降の子育て・教育は失敗だったのではないか・・・とさえ思えてしまいます。

「子育て」に惑わされて汲々とするよりは、「子守」と「郷中教育」を足がかりに、子どもたちが育つ環境をつくっていくことに目を向けていきたいですね。

 

 

投稿者 hoiku : 2016年03月31日 List   

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