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2015年10月27日

泣くとスッキリするけど、“感謝の涙”はもっともっと気持ちいい

私は昔から涙もろいようで、絵本や映画、結婚式のフォトムービーなどに感情移入して号泣してしまうばかりか、朝起きて子どもたちがすやすや眠っている顔を見ているだけで、生まれてきてくれたことや元気にいてくれることがありがたくてじわっときてしまいます。

私が泣いている時の子どもたちの反応はというと、乳児の頃は私の涙に驚いて一緒に泣き、幼児の頃は私が悲しんでいると思って慰めてくれるかケラケラ笑っておどけるかでした。
しかし最近、一緒に映画を見たり、絵本や国語の教科書を読んでいる時に、長女もよく涙を浮かべていることに気づきました。

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どんな場面でほろりとしているのか見ていると、大切な友達を助けるために命を懸けるライオン、拾った天敵の子とわが子を同じように育て守る母、友達のために自分が悪者になって姿を消す青鬼、少年の小さい頃は毎日遊び相手になり、おいしいりんごを与え、大きくなるにつれ足が遠退いても、久々に来るたび利用し尽くされても、ずっと大事に想い続け、人生に疲れた時にはそっと休ませてくれる木など、その情景や登場人物の気持ちに同化し、共感しているようです。

今まで子どもたちがどんな時に泣いていたか振り返ってみると、赤ちゃんの頃は、暑さ寒さ・空腹・不快・さみしい・退屈などから解放されたくて泣き、少し大きくなると“自分でしたい”“友達と同じものがほしい”“想いを言葉にできない”など思い通りにならないもどかしさや苛立ちから泣くことが増え、もっと大きくなると、友達との関わりの中で、さみしい・悲しい・辛い・申し訳ない・ありがたい・わかり合いたいなど、相手と自分との様々な想いから泣くようになっています。
大きくなるにつれ、次第に自分からみんなへと対象世界が広がっていることを実感しました。

そして大人になると、自分自身が辛い・悲しいから泣くというより、仲間や子どもたちに対する感謝や謝罪の涙か、他者への共感による感動の涙がほとんどだと感じます。
(それも当然で、社会に出れば、不全を誰かに解消してもらうために泣いてる暇があれば自分で実現に向けて動くしかないし、想いを言葉にしたい・仲間とわかり合いたいなら観念力を磨き、不十分でも言葉に心をこめて相手とまっすぐ向き合い続けるしかない。)

長女の涙で特に印象に残っているのは、妹が生まれてすぐの頃、妹を見つめながら「かわいすぎて、大事すぎて泣けてくる。ママ、こんなにかわいい妹を生んでくれてありがとう」とはらはら泣いてくれたことです。

その時は私も一緒に、「そんなに大事に想ってくれてありがとう。ママも、○○(長女)が生まれた時、ありがたくてかわいくて大事すぎてしょっ中泣いていたんだよ。生まれてきてくれてありがとう。」と二人で抱き合って泣きました。

その時の、心底から“ありがたい”という充足感に包まれた気持ちいい涙は、忘れられません。
こんな感謝の涙を、家族だけでなく、みんなと流せるようになりたいな、子どもたちにもなってほしいなと感じました。

最近、意識的に悲しみや感動などによる情動の涙を流すことでストレス解消を図る“涙活(るいかつ)”  という言葉もあるように、泣くとスッキリするのは、ストレスホルモンを対外に放出しているからだと何かの本で読みました。

意識的に泣いてもスッキリするのは確かですが、心からの感謝と充足に包まれた本当に気持ちいい涙とは比べようもありません。
そんな涙をみんなと流せるようになるには、「相手の充足=自分の充足」つまり自分と相手(みんな)が一体になる感覚が肉体化されるまで、心を開きあって、みんなに期待して応えてもらい充足する、みんなに期待されたことにまっすぐ応えて充足する経験を積み重ねてゆくしかないと思いました。

投稿者 hoiku : 2015年10月27日 List   

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