感謝の心を育む子育てとは?~儒教文化圏での伝統的な子育ての状況と意識~ |
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2013年12月13日
【コラム☆感謝の杜】こうした田んぼで、稲が育つ。だから米は「とれる」「できる」もので、人間が「作る」ものではない。
充ち足りた日々も学びから☆+゜~コラム☆感謝の杜(かんしゃのもり)です。
今年の田んぼも秋の収穫が終わり、冬を乗り越える準備に入っていますね
都会で暮らす人にとっては、そんな季節の移り変わりを目にすることは少ないものですが、私たちの「食」を支えてくれる「農」への関心は、年々高まりを見せています。
その関心は、ただ単に「食べるだけ」にはとどまらず、生産者との繋がりや、農産物が育つ環境、食べ方の知恵など、幅広いジャンルに及びます。
農業体験などは、子供たちの教育としても、よく取り入れられていますね。
「農」に触れると、自然への敬意や、命のありがたさなど、豊かな心が育まれることは、誰もが認めるところですが、そんな「農」の可能性を、私たちはどのように子供たちに伝えてゆけば良いのでしょうか。
・・・とある農業体験で田植えにやってきた都会の子供が、次のような疑問を投げかけたそうです。
『どうして田んぼには石ころがないの?』
「それはね…」
あなたなら、どう答えますか?^-^
続きもぜひ読んでみてください
百姓と自然が数百年をかけて、土を作り上げてきた (るいネットより)
子供たちの教育の中で、農業体験が取り入れられるようになっている。
宇根さんの田んぼに田植えにやってきた都会の子どもが、「どうして田んぼには石ころがないの?」と聞いた。
「うーん、そんなことはあたりまえじゃないか」と言いかけて、宇根さんはハッとした。石ころがなくなったのは、百姓が足にあたるたびに、掘り出して、捨ててきたからである。それも、10年、20年でなくなったわけではない。これが土の本質である。土の中にはたぶん百姓と自然が、土を作り上げてきた数百年の時が蓄積されているのだ。
初めて田んぼに足を踏み入れた子供たちは、田んぼの土のぬるぬるとした感触に驚く。
この土のぬるぬるとした感じは、数十年数百年かけて、百姓が耕し、石を拾い、有機物を運び込み、水を溜めてつくってきたものだ。しかし、百姓だけがつくったのではない。自然からの水が、山や川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定し、稲の根が深く土を耕すから、こんなに豊かな土ができるんだ。
このぬるぬるは、生きものの命の感触なんだ。だから水を入れて代かきすると、ミジンコや豊年エビやトンボなどが生まれてくるし、いろいろな生きものが集まってくるんだ。
こうした田んぼで、稲が育つ。だから米は「とれる」「できる」もので、人間が「作る」ものではない。人間が関与できるのは、「土づくり」だけだ。その土も、山や川、藍藻類やオタマジャクシなどの自然と、石を拾ったり、水を引き込んだりする人間との共同作業なのである。
農業とは自然に働きかけて、自然から「めぐみ」をいただくことである。そして農産物とはそのめぐみのごく一部に過ぎない。
こう考えると、農業こそは、自然に抱かれ、自然の恵みに養われて生きている人間の本質に根ざした営みである。近代科学技術、近代工業の発展によって、その自然が忘れ去られた事で、こうした農業の真の姿も見えなくなってきたのだろう。
米は「とれる」「できる」もので、人間が「作る」ものではない。
人間は「土」しか作れない。
・・・なんと謙虚な想いなのでしょう!
そのような謙虚な想いで、数十年数百年かけて「土」を作ってきてくださったことを想うと、傲慢な心が洗われ、深い感謝の念が湧いてきます。
私たちは、決して決して、一人では生きてゆけません
そして私たちが都会で手に取る農産物とは、自然や百姓の営みのごく一部に過ぎず、その背後の繋がりを見失ってはならないと、田んぼの「土」は教えてくれているのでしょう。
投稿者 chiue* : 2013年12月13日 TweetList
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