『安心基盤を作っていくには?』:「食」への期待7~安さを求めてきた消費者の意識こそが問題~ |
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2012年01月21日
『安心基盤を作っていくには?』:「食」への期待8~根本原因は食を支える農村共同体の崩壊~
前回まで、『安心基盤をつくっていくには?』:「食」への期待シリーズを続けてきました。いよいよ、シリーズも今回でまとめとなります。
京都府南丹市(美山のかやぶきの里)よりお借りしました
今回は、前回の安すぎる「食」の原因構造に迫りつつ、これからの新たな可能性についても考えていきたいと思います。
いつも応援ありがとうございます。
1.市場原理を最優先してきた生産者と消費者
前回は、これまでと視点を変えて、「安さ」を求めすぎる消費者の意識にも問題があるのでは?ということをお伝えしました。では、なぜ、食品はそこまで安く、そして生産者は儲からない構造になってしまっているのでしょうか?
その謎を解く鍵が幻想価値である。必需品は幻想化の余地が少ないので低価格になり、贅沢品は幻想化の余地が大きいので高値がつくと考えれば辻褄が合う。
みんなが必要とする必需品の場合は、それを消費する(使う)目的も明確だし、そのモノがどのように役に立つのかも明確である。だから、価格に対する効果も分かりやすく、売るほうからすると消費者を騙せる余地が少ない。従って、実体価値(使用価値)を大きく超える幻想価値は捏造しにくい。(一部にブランド食品等も出回っているが、高級ブランド商品に比べると価格格差は知れている。)
それに対して、ブランド品の場合は、そもそもそれを消費する(使う)目的も不明確だし、そのモノがどのように役に立つのかも不明確である。(はっきり言ってしまえば、生活するうえではほとんど必要のないモノばかりであると言ってもいいだろう。せいぜい、他人の羨望の的になったり、それによって自己顕示欲を充たしたりするぐらいの効能しかない。)主観的な好みが支配する世界であるだけに、価格に対する効果も非常に分かりにくく、売るほうからすると消費者を騙せる余地が大きい。従って、実体価値(使用価値)を大きく超える幻想価値が捏造しやすい。
要するに、市場という駆け引きの世界では、人を騙しやすいものほど高値になり、騙しにくいものほど安値になる。
農産物が安くなるということは、消費者にとっては有難い反面、他の幻想価値のくっついている商品に比べて安くなりすぎると、生産者の生活が成り立たなくなる(担い手もいなくなる)という切実な問題がある。騙しの上手い者が甘い汁を吸い、汗水垂らして働く騙しの下手な者が苦労をするという市場原理はやはりどこかおかしい。価格格差の問題も、必要か否かという観点で捉え直す必要がある。
市場原理の下では、食品という人間や集団にとって必要不可欠なものほど、「幻想価値>実質価値」となり、必要以上に安くなりすぎる。そして、贅沢品のようなものほど実質価値が曖昧でいくらでも幻想価値を上乗せできる(要は騙しの構造)。
また、市場拡大絶対の名の下に、幻想価値を付加できない食よりも、ブランド品や化粧品などに人々がお金を使えるように、食は徹底的に安くなってきたともいえそうです(市場拡大=幻想価値の肥大を最優先し、実質価値の代表である「食」は軽視されてきた)。
今では、日常的な食は、「少しでも安く」「満腹になる」といった本能欠乏を満たすためだけになってしまっています。また、その結果、現代人は総じて食べ過ぎており、逆に病気の原因ともなってきています。
■「食べなければ死なない①」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=259355
『人間は食べすぎや栄養過多、つまり「飽食」の結果として病気になる。これがほとんどではないか。病気になったらもっと食べなければいけないという、現代医学が教える愚かさ。』
しかし、ここまで安くなった「食」の問題は、身体がむしばまれるリスク(食品添加物、遺伝子組み換え、農薬等)となって顕在化しています。人間にとって大事なことは、ブランド品やファッションで身を飾ることなのか、食によって身体を作り、食を通じてみなと充足できる時間や空間を共有することなのかの価値観そのものが問われているのではないでしょうか?
2.市場原理による取引関係から共認原理による信認関係へ
戦後、経済成長(市場拡大)を優先し、食も市場原理に委ねた結果、消費者に要求に迎合して価格は安くなりすぎ、小売業者は利益を確保するために生産者(農業)や流通業者にしわ寄せが行き、さらにコストを削るために国内だけでなく人件費の安い新興国や広大な面積で大規模農業を行うアメリカ等からの海外からの輸入作物に依存する。
その結果、このシリーズで述べてきた身体への影響が心配されるような様々な問題が顕在化し、食糧自給率も40%に下がり、安全な食を確保することさえ難しくなってきています。
はたして、私たちの「食」は市場原理に委ねておけるものなのでしょうか?
■農業は医療や教育と同じく人類(集団)にとって不可欠の事業であり、脱市場原理の最先端可能性といえるのでは?
貧困が消滅して以降、それまでのように生きるための食糧を生産するという課題は希薄になっていく。食べるだけならば、世界中から安く農産物が輸入されてくる。人件費が日本の1/10、あるいは規模において数百倍以上の大規模農業の効率性と比較すれば、単純にコスト競争では歯が立たない。しかし、多くの人はだからといって国内の農業をやめてしまっていいわけではないと感じている。しかし、そこが鮮明になっていないが故に、結局は安い商品に淘汰され、結果として利益もほとんど残らず、農業は儲からないというようなマイナスイメージとなってしまっている。
ただ、実際に農業をやっている方の意見としては、儲からないのは市場原理の中、価格競争圧力によって低価格構造から脱しきれなかったり、豊作や不作で需給バランスが崩れ価格が大きく乱高下することも計画的に経営を続けていくことが難しい原因となっているとのこと。
要は、安定した価格(別に高額でなくともよい)で継続的に購入してくれる顧客さえいれば、農業は今でも充分に成立するはず。そのためには安定した販路を構築する必要があるわけですが、そこで評価されるのは商品そのものというよりは、作り手の姿勢であり、その背後にある状況認識や課題設定にあるのではないか。
その状況認識と課題共認によって追求され導き出された「答え」に人々は共鳴し、その作り手の事業を応援したくなる(つまりは、農産物を購入する事で)。そういった信認関係にまで高められなければ、結局は価格が安いという「金銭的メリット」だけで様々な小売店や直売ネットと比較され、安定した関係にはいたらない。
今や、本能(食欲)を満たすたけの食ではなく、食を通じた共認充足(生産者や小売店の方や、ともに食事をする人とのとのやり取りによる充足)にこそが充足価値であり、人々の食への最大の期待なのではないかと思います。
安全や安心は、どれだけ基準を厳格にしてもそれをすり抜けることは可能であり、また、厳格にすればするほど手間やコストも上がってします。それよりも、シンプルに顔の見える生産者から買わせていただくことで相互の信認関係(共認原理)に基づく繋がりや、やり取りによる共認充足を得られる方が可能性があると言えます。
もはや、モノとしての食糧そのものよりも、生産者の方がどのような想いで農作物を作り、どんな苦労があったのか、何を工夫してきたのか、などの生産にまつわるストーリーこそが価値を持ってくる。単に写真を貼るだけで顔が見えることを超えて、そういった背景や考え方、人柄まで伝わってはじめて商品価値となってくるのだといえます。
物的欠乏が衰弱している現在、モノとしての食糧だけよりも、それを作った人や企業そのものへと関心が向かいつつあるのだと思われます。
前回、ご紹介したように、その最先端となる実現事例も生まれてきています。
①変わる消費者の意識
②変わる生産技術
③変わる食の流通(コンビニ・スパーマーケット)
④食を通じた新たな繋がりの萌芽
3.不況でも伸びる直売所は、共認原理による信認関係のひな形
特に注目されるのが、各地に広がっている、「農産物直売所」です。
『県内直売所不況知らず 旬の農産物安くて新鮮安心』2011/7/10
・徳島県内の農産物直売所が売り上げを伸ばしている。多くの消費者から「安くて新鮮」「安心できる」と支持され、2010年の販売額は44億4千万円に上った。県が直売所の販売総額を集計したのは今回が初めてだが、調査を始めた06年から多くの直売所20 件が売り上げを伸ばしており、10年の販売額は過去最高とみられる。
・調査を始めた06年時と10年の実績とを比較すると、年間1億円以上を売り上げる直売所は4カ所から10カ所へ2・5倍に増え、5千万円以上1億円未満の直売所も6カ所から14カ所になった。年間の来客数(レジを通った客数)は、06年の178万人から07年は271万人、08年は332万人となり、右肩上がりに推移20 件。09年には350万人を超え、10年は383万人と、1日1万人強が直売所で買い物をしている計算だ。
・石井町の「百姓一」に来ていた植木直美さん(53)=北九州市=は、徳島に単身赴任している夫を2~3カ月に一度は訪ね、直売所巡りを一緒に楽しんでいる。「野菜が新鮮で安い。生産者の名前も書いてあるので安心できる」と植木さん。枝豆をたくさん買い込み、お土産に持って帰ることもあるという。
・神山町の「旬の市神山」で青ウメを買っていた徳島市国府町和田の男性(43)も「近くの量販店より産地の直売所の方が品質のいいものが売られている気がする。値段も安いし、毎年ここに足を延ばしている」と話していた。
【写真説明】新鮮で安い農産物を求め、多くの買い物客が訪れている直売所=石井町重松の「百姓一」 徳島新聞
全般的には、苦戦している流通業界において、「農産物直売所」は堅調な伸びを見せています。
「都市・農山漁村交流における地域物産販売」を修正・加工
このデータによれば、直売所は2005年の時点で店舗数で最大手のコンビニであるセブンイレブンに匹敵し、従業員一人当たりの年間販売額でもコンビニに迫るほどになってきています。
特に注目されるのは、その成長性です。農業センサス調査で、2005年度 13,538店が、2010年度 16,816店と、5年間で124%の伸びとなっています。それに伴い、年間販売額も1兆6,455億くらいまで拡大していると予測されます(店舗当たり売上を基準に計算)。
これらは、すでに顕在化している共認原理による信認関係への移行事例だといえます。今後も、現在の顔の見えない市場取引から、期待や応望、評価や感謝のやり取りがなされる顔の見える信認関係へとシフトしていくと思われます。
4.すべての問題は(農村)共同体の崩壊にあった
ただ、これらの信認関係による流通が普及していったとしても、まだ大きな課題は残ります。今後、10年で生産者の高齢化が進み、農業生産の担い手がいなくなるという問題です。
つまり、食の問題は流通だけでは解決せず、やはり、生産の場(つまりは農村)までさかのぼらなければいけないのだといえます。
結局、根本的に食の安全基盤について考えれば、食の問題解決だけで無く、食の母体となる農の再生も不可欠であり、最終的には農業生産を支える農村共同体が再生が必要になるのだと思います。
「医食農同源」
食の問題は、身体にいい悪いという現象レベル(食材という単一要素)で語られることが多いが、本質は「食文化」の崩壊であり、ひいては「食文化」の母胎である「生産集団(農村共同体)」の崩壊にいきつく。・農から生まれた野菜を食して生きている私達は、食と農を切り離しては考えられない。気候や風土の違いによる食文化や農法、農場から食卓までの流通や保存の問題などいろいろあるが「食と農」は同源と言える。
・「医と食」を同源にする考え方は東洋医学の考え方で、食により病気にもなるが治療にもなる。医学の父といわれているヒポクラテスも「食べ物で治せない病気は医者でも治せない」と言っている。東西を問わず医と食は切っても切り離せない。
・医=食 食=農 故に医=農という数学的な図式ではなく、「医は農に、農は自然に学べ」と解いている人もいるぐらいである。理由として
(1)医は人(動物)を農は植物を対象にしているが、どちらも生物である。生物の特徴として環境に左右されるため、環境をいかに快適にするかを考えなければならない。
(2)栄養は、人は腸の絨毛によって、植物は根の毛根より吸収される。
(3)腸内細菌や土壌細菌によって健康が左右される。善玉細菌をいかに増やすかが健康作りや野菜作りの基本になる。
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人間も生物である以上、環境(外圧)からは切り離しては存在できない。「医食農同源」という考え方には非常に共感できます。医、食、教育など人間の基本的な営みは結局、食を供給する「農」に帰一するのかもしれません。
長期的に見れば、安全性や食糧自給率などの食の安全基盤を確保するためにも、農村共同体の再生は最重要の課題になります。これについては、このブログを通してさらに追求していきたいと思います。
シリーズを通して読んでいただいてありがとうございました。
投稿者 staff : 2012年01月21日 TweetList
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