今後の社会はどうなる!?-2・・超インフレと預金封鎖で旧紙幣は紙屑に。狙いは新紙幣配給による経済のリセット |
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2011年09月22日
安心できる社会をつくろう!(3)~民主主義で市民運動は実現しない~
前回記事では、議員に働きかけ国会に訴えていくような旧来の手法を用いた市民運動では、いくら頑張っても目的は達成されないことがよくわかりました 🙄
残念ながら、日本の国会はお飾りにすぎないのです。
このお飾りの国会、その運営は「民主主義」により行われています。
小さい頃からごく当たり前のこととして教えられている「民主主義」ですが、本当に良いものなのでしょうか
今回は更に一歩踏み込み、「民主主義」について考えていくことにしましょう。
まずは、「民主主義」の代表格である「多数決 」について、いろいろと考えさせられるお話しを紹介します。
村の決まりごとを「多数決」で作っていくというお話です。
「村の少数派 」(リンク)←絵本です。クリックしてお読みください
多数決では多数派の賛成で物事が決められるため、当事者ではない多数派の自己主張や要求が認められていきます。で、結局、村は決まりごとだらけになり暮らしにくくなる というお話です。
やっぱり何かおかしいですね。
それでは、もう少し「民主主義」について見ていきましょう。
続きもよろしくお願いします
(1)民主主義は自我の暴走装置である
民主主義は、自我の暴走装置である(リンク)民主主義の要を成す議会が、左右いずれにせよ金融勢力の操り人形の演舞場にすぎず、これまでやってきたことが、金貸しの暴走にお墨付きを与えることだけだったとすれば、いったい民主主義とは何だったのか?
(中略)
人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。
だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?
それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。それに対して「民主主義」は、根本的かつ致命的な欠陥を孕んでいる。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。むしろ、民主主義は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。
こうして民主主義は、『学び』をないがしろにすることによって、どんどん自我を暴走させると共に、どんどん人々を無能化させてきた。
要するに、金融勢力は、「民主主義」を人々に吹き込むことによって、人々の自我をとことん肥大化させると共に、とことん無能化した上で、自分たちの好きなように染脳してきたわけである。かくして、民主主義に導かれて暴走してきた近代社会は、ついに経済破綻と地球破壊のドロ沼に沈み、そこから這い上がれなくなってしまった。いまや、人類は滅亡の一歩手前にある。
それは、民主主義が自我の暴走装置であり、とりわけ金貸しの暴走を正当化する悪魔の思想であることの、疑問の余地のない証であり、もはや、この期におよんで民主主義を正当化する一切の言い訳は通用しない。以上で明らかなように、民主主義は、決して共認原理に立脚しているのではない。それどころか、民主主義は、共認原理を破壊する自我原理に立脚している。それが、民主主義の正体である。
(そもそも、「民が主」というのも自我発の言葉であって、共同体の人々が「自分たちが主」などと言うわけがない)人々の意識の変革は、民主主義の正体を見抜くことから始まる。
すなわち、制度としての民主主義は自我の暴走装置であり、思想としての民主主義は悪魔の思想であることを見抜いて、民主主義を全的に否定すること。
全てはそこから始まる。そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる。
民主主義の正体がよくわかりましたね。
多数決に代表される民主主義では、「発言権」や「評価権」がとにかく優先され、『まず学ぶ』という姿勢がないがしろされるので、結果、参加する人々は、何も知らなくても出来る自我や要求だけの主張や判断をするようになるのです 🙁
民主主義は、自我の暴走装置であるばかりか、どんどん人々を無能化させていたのです。
(2)民主主義に変わる社会の統合様式
学生時代から民主主義がベストだと教え続けられている私たちにとって、正直、民主主義以外の統合様式を、なかなか想像することは出来ませんね。
しかし、この民主主義が日本に導入されたのは明治時代で、その歴史はたかだか数十年です。
では、明治時代以前の日本は、どのようにして統合されていたのでしょうか? 😀
「寄り合い」という合議システム(リンク)
読んでやはり強く興味を引かれたのは、本書の冒頭から描かれる「村の寄りあい」の話だろう。
<村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へ帰ることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。>(本書p.13)
著者が「古文書を借りたい」と申し出たのに対し、「そういうことなら寄りあいで話しあって」ということになった、その「寄りあい」が、これである。著者の申し出は朝話題にされたのだが、そこから関連した話題から話題へ移り、他の話題も話し合われ、午後3時を過ぎても著者の申し出に対する結論は出ない。
そのうちふたたび古文書に関係した話題が出てきて、著者の申し出の話題にもどる。それからまた別の話題へと移り、そうしながら徐々にひとつひとつの話題に結論が出され、取り決めがなされるのである。
こうして、決して結論を急ぐことなく話しあい(というか、関連する話題の交換)を繰り返しながら、それぞれが考え、村人全体の共通認識を作り、問題の「落とし所」を見つけていくのである。<……(その場で寝たり、食事を摂ったりして)結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。ひとつの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。>(本書p.16)
こうした「合議」の姿というのは、現代から見れば「効率的ではない」とされるのだろうが、しかし「みんなが納得のいく」結論を得ることを最重要視するがゆえの、時間をかけての話し合いなのだと理解できる。 こうした村の場合、村全体がみな「知りあい」であり、農作業にしても漁業にしても必然的に共同作業をやらなければならない。そうした中で村の「決めごと」をしようとするなら、「みんなが納得する」ことは非常に重要な事だったのではないか。
そしてその「みんなが納得する」結論を得るための知惠として、村が築き上げてきたのがこうした「寄りあい」という合議のシステムだったのではないか。それは現代の「会期内にとにかく(多数決でも何でも)結論を出し、納得できなくてもしょうがない」とする(なってしまっている)「民主主義」の制度と対照的である。もちろんこの「寄りあい」のシステムが現在の国政のレベルで有効に機能するとは僕も思っていない。しかしここには、現代の「合議」というスタイル、「合意形成」のスタイルをどう有効に機能させるかについて、本書で言われている「話に花がさく」程度の示唆を与えるのではないか、という気がする。
こうした「寄りあい」の効力は、村全体の「合意を形成する」という成果の他に、「各自の考えを村全体のものに寄り添わせる」働きをも持っているのではないか。
今現在「公共の事を考えろ」と各自に迫っても、実際にそれで個人々々がその考えを改めていくのは難しいだろう。それよりもこうした「寄りあい」にも似た会合をいつでも、どこでも持てる環境を得る事によって、近隣の人々の考え方を、それぞれの個人的事情までも含めて受け取る事によって、翻って各個人が「近隣をも含めた考え方」に至る事は可能なような気がする。
現在でも、親しい人がいるならその人の事情や考え方をくみ取って、自分の考えを「寄り添わせる」ような事は誰でもやっている事であろう。それが昔は「村」などの共同体や「寄りあい」という合議システムの中に取り込まれていただけの事なのではないか。
どうやら「多数決」なんかしなくても、村は統合されていたようですね。
統合されるだけでなく、村人全員が活力を持って、イキイキ と生きていたようにも思えてきます。
私たちがごくごく当たり前と思っている「民主主義」などの近代思想が、実は、現代社会の閉塞感を生む諸悪の根源なのかもしれません。
では、私たちは今後どのように行動していけばいいのか?どのように運動していけばいいのか?
次回はシリーズの最後のまとめ記事です
具体的な方法を模索していくことにしますので、ご期待下さい
投稿者 isgitmhr : 2011年09月22日 TweetList
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コメント
投稿者 pochi
こんにちは
絵本「村の少数派」をお取り上げいただきありがとうございました。
http://peacepicturebook.blog29.fc2.com/blog-entry-630.html
投稿者 東郷 潤
なるほどです!!民主主義って、『大衆に何も考えさせない。結果、必ず閉塞させる』という構造があることが良く分りました☆
これで選挙演説で聞く「イキイキと活気に満ちた社会」なんて出来ないですよね~!!