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2011年04月19日
原発:近代科学原理主義者たちの産物
画像はこちらからお借りしました。
震災以降、原発事故は繰り返し報道されてきました。しかし、断片的な専門用語、安全上大きな問題は無いという専門家の発言、一方で海外の過敏な反応などがあいまって、問題がはっきりと認識できないというのが、普通の人々の感覚だったと思います。
そこで、これまで以上にネットで情報探索をする人が増え、twitterなどで情報が次々と紹介されはじめると、事の重大さと、報道がまともに情報を伝えていない事が明らかになってきました。
いまや、「ただちに影響はない」「想定外」といった報道の繰り返しは、人々に空虚さと怒りをもたらし、所詮「神話」でしかなかった原子力発電の安全性の詭弁を多くの人が見破っています。
なぜこれほどまで危険なものが、ここまで稚拙な「想定」のもと易々と生み出され、受け入れられてしまったのか?
今回は、その一因を端的に示した「るいネット」の投稿から紹介します。
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るいネット:『原発:近代科学原理主義者たちの産物』からの引用です。
「想定外」。このたびの原発事故で関係者(科学技術者)が発した言葉だ。
この言葉を聞いた我々一般大衆は「そんなことも想定していなかったのか」と呆れ、ことの重大さ対する関係者の傍観的姿勢に怒りを禁じえない。
しかし、冷静になって考えてみれば、この「想定外」という発言は、学者自らが近代科学の重大な欠点に気づいていないことを示している。
近代科学は、ある一定の条件下でだけ成立する法則の集合体だ。あたかも全ての条件下で適用可能な一般法則のように思われているが、実は違う。万能性はない。しかも、この欠陥を逆に捉えると、恣意的に条件を変えれば、自らの都合が良いように特定の結果を導く事が出来る。ここに近代科学が万能であるという妄信が加われば、恣意的に操作した結果得た答えでさえ、万能性のもとに得た最良な結果である、という妄信が生ずる。
今回の原発事故は、そのようにして生じた。
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どこまでの事態を勘案するか、恣意的に条件設定したにも関わらず、あたかもそれが万能であるかのような「安全」という答えを導いた。そして、恣意的な条件操作をした際に抜け落ちた、もしくは、作為的にに勘案しなかった部分が「想定外」だったのである。
恣意的な操作をしているにも関わらず、それを万能と思い込むことは、もはや原理主義といっていい。「想定外」という発言がでる時点で、自らが恣意的な操作をした事を認めていない。当然、自らが信仰する近代科学の重大な欠陥には気づいていない。恣意的な操作をしたことを「意図してやったわけではない」という発言は、自己正当化を通り越して完全に思い込みの世界である。
そのような原理主義者が立派な学者として崇められているらしい。恐ろしい事だとしかいえない。
我々は、原発を生み出したのは、近代科学原理主義者たちであると知ると同時に、そのような危険人物が特権階級に居座っていることを知らなくてはならない。
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「実験で確かめられた事」やそれを基盤にした「科学」が絶対であるかの様な思い込みは、我々庶民にも浸透していました。
身近な所では、例えば日々CMを目にするサプリメントなども同様で、ある物質にある種の効用がある事は事実でも、実験で確認されている条件は現実とは異なる限定的なものです。本当は、その限界範囲をも認識しておく必要があります。
これまで大多数の人が特に疑う事も無く市場拡大の為の「科学信仰」に流されてきましたが、今回の原発事故やその結果として生じた節電意識は、盲目的に市場拡大を前提にしてしまう感覚にも、科学信仰にも冷水を浴びせました。
起こってしまった事故は、被害を最小限に留めるための努力を続けるしかありません。(参考:.東北地方太平洋沖地震~原発は必要か否か27~(最終回) 原発は不要!⇒今後に向けた『提言』)
しかし、これを一時の危機に終わらせず、一部の人間の思い込みによって誰もが危機に陥るような体制を契機としていく必要があります。その為にも、我々素人も事実と可能性の発信に注力していきましょう。
投稿者 willow : 2011年04月19日 TweetList
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