新たな時代の教育制度の提言に向けてシリーズ-3~No.7 現在日本の教育制度制定のしくみ~ |
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2011年03月29日
虐待・・・その一凶を断ち切るには?
(画像はこちらからお借りしました)
先日(3月19日)、母親が生後1カ月の次女の頭を殴って殺害したというニュースがありました。それも震災を受けたはずの岩手で・・・。
毎年必ずといってよい程発生する虐待死。
どうして我が子を虐待する母親が後を絶たないのでしょうか?
今回は、虐待が何故起こるのか?
その一凶とそれを断ち切るにはどうしたら良いのか?を「るいネット」の投稿から紹介していきたいと思います。
応援よろしくお願いいたします
虐待はどういった家庭で起こるのでしょうか?どんな家庭でも起こり得るのでしょうか?
まず、その虐待の根本原因を、未開部族の風習に求めた投稿を紹介します。
この根本原因を考えるに当たってヒントになりそうなのが、アマゾン奥地のヤノマミ族の間引きの風習にあるように感じた。
ヤノマミ族が、子供の間引きをするのは、異常気象による作物の不作時や許されない間柄で授かった子供に限定されている(この行為を、『精霊に返す』行為と表現している)。こういった状況は、明らかに子供を自集団内で育てる上で困難な環境に陥った時の行為であり、母性を本能と仮定したとき、この現象は集団存続上、止む得ない場合は封鎖されることを示唆していると見た方が賢明そうだ。
逆に言えば、母性とは子供が安心して育てられる環境にならないと解放されないと言え、現代の母親の多くが、子供を育てる集団(安心して育てられる環境)を持たないゆえに、母性が封鎖されているのではないかと仮説が成り立つ。
虐待は、子供を安心して育てられる環境を失った時に起こると仮説されています。
この安心して子育てをできない環境こそが、このブログのテーマにもなっている「密室家庭」なんです。
この密室家庭は、戦後日本が高度経済成長するにつれて、核家族化が進行することで、できあがりました。
これにより、共同体での共認充足が核家族の密室内での自我充足に取って代わられ、母親が常に非充足状態に陥ることになってしまいました。そして、その非充足状態を加速してしまうのが、「旧観念」です。
その「旧観念」なかでも特に、
個人主義という旧観念に支配されながら密室家庭で子育てをする母親は大変です。子育てに不安があっても頼る人がなく、子どもの評価=自分の評価と考えてしまうため、「いい母親にならなくてはいけない」「いい子どもを育てなくてはいけない」という強迫観念に襲われて自分ひとりで必死になります。
とあるように、「個人主義」がその一凶であり、その結果、
子どもが言うことを聞かなかったり失敗を繰り返したりするとパニックを起こしたり、人の意見を否定的にとらえ拒絶したり、子どもの問題を教育者に押し付けたりして、自分を正当化し守ろうとします。
こうして、虐待が繰り返されてしまうことになります。
ではどうしたら良いのでしょうか?
実は、戦前の日本でも、虐待の一歩手前まではあったようです。そんな時どうしたのでしょうか?
>兄は八つか九つだったろうか。その下にそれぞれ三つちがいの私と弟がいたし、父の世話、世帯のやりくりで、母は眼がまわるほど忙しかった。
それでも、お隣りから火のつくような子どもの泣き声がきこえてくると、「ほら、また」
母は、洗濯ものを放り出してとんで行った。ご亭主はいつも留守だったような気がする。二十四、五の若いおかみさんは、やせて小柄なのにもう三人の子持ちで、おまけに下の二人は年子だった。年寄りもいなかったから、手がまわらないので、つい、かんしゃくをおこすらしく、よく子どもたちをピシャピシャぶっていた。
「子どもの頭をそんなになぐると、馬鹿になっちゃうよ、さ、かしてごらん」
母はおかみさんの手から赤ん坊をひったくり、いきなりおむつをあけて、
「この子のお尻はただれてるよ。子どもが泣くのはちゃんとわけがあるんだからね。そっちの子は連れ泣きだよ。どこもなんともないから大丈夫。兄ちゃんはおなかがすいてるんだろ、うちへおいで、おいしいおせんべいがあるよ」
ついでに台所で焦げついている里芋のお鍋をおろして、
「しょうがないね、今夜は湯どうふにでもするんだね」
と、晩のおかずの指図までして、上の子の手をひいてかえってきた。
~沢村貞子「私の浅草」より
何ともたくましい頼もしい「隣のおばさん」ですが、子育て不全というのはどうやら明治の女にもあったようです。それを虐待に向かわせなかった、その一歩手前で食い止めたのは周りの力。この周りの力が十全に発揮できたのは、うちも隣も同じ、おとながこどもを守るのは当たり前、経験者・年輩者が若いひとに意見するのは当たり前、というような社会規範があったから。
虐待防止には社会規範の再構築という共認形成が不可欠で、その中身はまず「個人主義」という旧観念を捨て去ることからスタートするのだと思います。
したがって、「個人主義」という旧観念が元凶であることを、しっかり認識し広めていくことで、新たな社会規範を構築していくことが、虐待を断ち切って行く近道なのではないでしょうか。
投稿者 ford : 2011年03月29日 TweetList
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コメント
投稿者 gontiti
虐待のニュースを見聞きし、その子供を想うと、いつも胸が痛みます。しかしその一方で、加害者となってしまった母親のことも、自分が母親となってからはとくに気になります。
世間では、加害者であり、生後一ヶ月の赤ちゃんに対して、どう考えても強者の母親を責める声が多くあがります。しかし、母親を責めたところで、虐待の問題は何も解決しないし、むしろ他の母親を不安にさせるだけです。
>個人主義という旧観念に支配されながら密室家庭で子育てをする母親は大変です。子育てに不安があっても頼る人がなく、子どもの評価=自分の評価と考えてしまうため、「いい母親にならなくてはいけない」「いい子どもを育てなくてはいけない」という強迫観念に襲われて自分ひとりで必死になります。<
「子供はみんなの子供、子育てもみんなの役割」という意識があれば、虐待も食い止められるだろうし、一人の母親を責めるのではなく、母親を取り巻く環境や、社会状況にまで、自然と目が向くと思います。
私も、周りにいる女の人たち(世代に関係なく)とそれを分かち合い、子育ての課題も喜びも共有したいです☆
投稿者 チーズケーキ
私も母親ですが、家で子供と2人きりになると怒り方がひどくなってしまうこともしばしば。
他の人の目がないから、自分で抑制できずエスカレートすると「虐待」になってしまうんでしょうね。密室空間って本当にこわいですね。そのこわさをもっと知って欲しいと思います。
投稿者 tomitomi
虐待 恐ろしいですね。事件研究会(名前検討中。子作り計画 子育て 養育 教育 未来
子育て教育研究会(名前検討中
投稿者 謎の三文字☆村石太
>「個人主義」という旧観念を捨て去ることからスタートするのだと思います。
言われてみれば確かに、と思いました。近所で子供が大泣きしていたり、実際にえらく叩かれたりしていても、「よその家の教育方針だから」と、一寸声を掛けるのも躊躇してしまいます。
昔とは少しずつ中身は変わるのでしょうが、誰もが同じように「こうした方がいい」と思える規範を共有すること、それが可能な人繋がりを改めて作らなければ解決していかない問題なのだと思いました。