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2011年01月11日
『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~13.日本の教育の歴史総集編 PART2(幕末・明治時代~昭和初期(戦前)編)』
こんにちは 😀 よしたつです
前回の総集編第1弾はどうでしたでしょうか?古代~江戸時代まで日本の教育史を足早ではありましたが見ていきました。その時代ごとの教育の主体が誰であったかを見ていくと、その時代の外圧状況と期待の中身が良く見えてきたのではないでしょうか。
そして、今回は総集編の続編、第2弾です。扱うのは、幕末・明治時代~昭和初期(戦前)までになります。それでは早速、長期平安を保った江戸期から激動の幕末期を迎え、どのように現在に至るのかをこれから見ていくことにしましょう
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■幕末・明治時代の教育 寺子屋の衰退~小学校の登場(リンク)
幕末になると国内外の情勢が不安定となり、列強の圧力が日本に直撃するようになる。すると、庶民にまでその危機意識が伝播し、実のところ寺子屋の数は増加したのである。ところが、明治5年の学制の制定以降、教育関連法が明治政府によって施行されると、小学校が各地に開校されるようになり、小学校と寺子屋との間で摩擦が生じ、政府の圧力の中、寺子屋の数は次第に減少していくことになった。
けれども、従来の寺子屋とはあまりにも異なる小学校の登場は、庶民の反発を買うこととなった。それが、明治初期に「学校一揆」という形で日本中で起こる暴動として表れるようになった。そこでの反発の理由は、ひとえに庶民にとって、まるで実用性を感じさせない義務教育の強制導入による反発だった。おまけに、庶民からしたら高額な学費の徴収と、働き手の喪失、そして何よりも従来のムラ(自然村)の崩壊の危機感は、怒りとして表れずにはいられなかったのであった。そういうわけで、当初なかなか定着しなかった小学校教育ではあったが、それでも強制的にでも押し進める必要があった明治政府は徐々に制度を厳格強化していき、明治10年までには完全に寺子屋を廃止させる方向へと仕向けたのであった。
また、ここでの明治政府が強制義務教育を推し進める理由とは、アジア三大国家(中国・インド・トルコ)を手篭めにした列強諸国に対抗するために早期に国民国家思想を定着させるという目的があったのだった。こうして、明治の初期には驚異的な早さで官主導の近代教育の原形が出来上がっていったのであった。
■明治時代の教育1 明治政府の目指した国民思想=『学問のすすめ』(リンク)
明治時代は、時代背景から列強圧力への対抗と順応という大きな目標が横たわっていることがわかる。それゆえ、明治政府は日本の欧米化路線を早急にすすめていく必要があった。それには、古代から脈々と続く出生身分制度を根本から否定し、新たな国民国家思想を創出することが急がれた。その国民国家思想の基礎となった思想が、福沢諭吉の『学問のすすめ』という書籍に明確に書かれていた。それを物語るように、『学問のすすめ』は340万部、当時の日本人の10人に1人が読んだとも言われている大ベストセラーになった。
その中身は、第一編で『人権の平等と学問の意義』を説き、「人は生まれたときには、貴賎や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人になる」と記している。これは、努力さえすれば誰でも可能性は開かれるという意味合いにもとれるが、逆を言えば、能力身分制度や学歴身分制度を正当化したものとしても捉えられ、結局のところ出生身分制度の仕組がそのまま摩り替わっただけであったと言える。
また第二編では、明治の新しい時代の社会はどうあるべきか、どう統合されるべきかを扱い、第三編では、愛国心のあり方、第四編では、国民の気風が国をつくる、第五編では、国をリードする人材、第六編では、文明社会と法の精神、第七編では、国民の2つの役目という形で論述している。
これらからわかるのは、明治期の社会統合への気運の高まりと目指すべき教育のあり方が見えてくる。
■明治時代の教育2 公教育の成立=欧米化政策(リンク)
明治期の公教育化への成立過程を見ていくと、幕末・明治維新に急激に影響力を強めた国際金融資本家の姿が浮かび上がってくる。その片鱗を大きく覗かせる出来事が幕藩体制を崩した雄藩の起こりである。中でも主力として働きを見せた薩長連合は、グラバー商会による武器供与により圧倒的な武力を手に入れている。そのグラバー商会は、アヘン戦争の原因をつくったマセソン商会を経由してロスチャイルドとつながっており、その後の公武合体政策から明治維新の流れをつくった。
また、明治に入り、明治憲法をつくる際も、伊藤博文らが1882年にイギリスに渡り、ロスチャイルド家の紹介で、ユダヤ人憲法学者のドルフ・フォン・グナイストとロレンツ・フォン・シュタインを紹介してもらうなど、日本の近代化にはイギリスに拠点を置くユダヤ系国際金融資本家ロスチャイルドの存在が絶対に欠かせないものであったのだ。
そういう流れもあり、明治政府内にも、国際金融資本家の意向を重視する「国際主義派」と日本独自の精神を守ろうとする「民族主義派」のせめぎ合いが続いていた。ただし、現在の日本を見てもわかるように、後に「国際主義派」が政治や経済の主力になっていったのである。
そうして、明治期は近代化の波に押され、日本銀行や株式会社、郵政制度を確立し、戦争の為の莫大な資金を調達できる状況をつくりあげ、日清・日露戦争へと突入していくことになる。そして、この影響は、もちろん教育の世界にも広がってゆき、寺子屋の衰退→義務教育制度の定着→国民国家思想の普及へとつながったのであった。
明治政府の教育制度は、学制はフランスに倣い、教育内容はアメリカを手本にした。このどちらの国も、「自由・平等・友愛」を基にした、出生身分を否定した国家であり、その代わりにキリスト教を国教とした思想統一を教育に組み込み、国民国家思想を定着させている。
ところが、日本にはキリスト教のような統一された観念体系が存在しないので、それに代わる意思統一を図る観念が必要とされた。それが、天皇と言う神格化した存在を核とした「天皇臣民」教育の登場であった。
こうして明治政府は近代化へ向けた教育制度を創出し始め、確立させるに至った。
教育制度 創始期(リンク)
(1)学制の頒布 (1872年/明治5年:江藤新平文部大臣、加藤弘之文部丞)
(2)教育令の制定(1879年/明治12年、田中不二麻呂文部大舗)
(3)改正教育令 (1880年/明治13年、河野敏鎌文部卿)教育制度 確立期(リンク)
(4)学校令の制定(1885年/明治18年、森有礼文部大臣)
(5)教育勅語の下賜(1890年/明治23年、芳川顕正文部大臣)
(6)学校教育の多様化と普及(1893年/明治26年、井上毅文部大臣)
■明治末期・大正時代・昭和初期(戦前)の教育(リンク)
明治時代も終わりを迎える頃、近代教育はほぼ確立し、初等教育から高等教育に至るまで基本体系が整備されるようになった。特に、明治後期から大正初めにかけて導入された制度が「学級制」であった。
それ以前までは「等級制」といって年齢に関係なく知育中心・知識の伝達に重点をおいた、個々人の知育に応じた教育を実施していたのに対して、「学級制」は、道徳教育や国民教育という訓育的側面に重点をおいた、日本国民としての一体性を涵養するたの教育に代わったのである。つまり、有無をいわさず同年齢の子供が集められた集団の中で、画一的な教育を受けさせる形になったのである。
この「学級制」という形態は、一斉授業という形で画一的な思想を教え込むのには、非常に理に適っていた。この導入が実施された明治期の終わりと言えば、日本が日清戦争の勝利を背景としたナショナリズムの高揚で湧き上がっていた頃になる。日本国としての結束の強さが、国を強くし、豊かにすると確信していたことが背景にあったのだ。この意図を強く読み取れる好材料が、その当時使われていた教科書を時代ごとで見ていくことにある。
(1)第一期国定教科書 1904年(明治37年)~1909年(明治42年)
教科書は、国語読本、書き方手本、修身、日本歴史、地理。1905年(明治38年)から算術と図画の教科書が加わり、1910年(明治43年)には理科の教科書が加わった。
特に、修身の教科書には、個人や社会の倫理が重視されたことが窺える。これは列強国として地歩を固めつつあった当時の日本にとって、忠君愛国の気質を養成することと並んで、資本主義国家の国民として欧米の近代市民社会の倫理観の涵養が求められていたことの表れであった。(2)第二期国定教科書 1910年(明治43年)~1917年(大正 6年)
第一期で重視された近代市民社会の倫理に代わり、家族的国家倫理を重視する姿勢に変わった。『高等小学修身書』では、親に対する孝行と天皇に対する忠義を同一のものと捉えた上で、国家を家族に見立て国民の団結を図ろうとする家族国家観の性格がはっきりと示されている。
また、第一期では別々に挙げられていた忠君と愛国が結び付けられ、新たに忠君愛国という項目が生まれ、忠君と愛国同一に考えられるようになった。国語教科書では、軍事教材が増加し忠孝道徳をテーマにした「かぞえ歌」を取り上げられた。(3)第三期国定教科書 1918年(大正 7年)~1932年(昭和 7年)
自由と統制の両面を合わせもつ大正期に編纂された。第一次世界大戦が終結した1918年(大正7年)から順次使用開始さらた。終戦終結後の国際協調制の流れを意識した内容になっており、修身教科書では、第二期で後退した近代市民社会の倫理が再び重視された。
『尋常小学修身書』の「国交」では日本が常任理事国入りした国際連盟の説明を介して、第一次世界大戦後の国際協調の意義が述べられた。一方歴史教科書は、「天の岩屋」「大国主命の国土献上」などの神話が増加し、修身や国語教科書では後退したナショナリズム色が強められた。(4)第四期国定教科書 1933年(昭和 8年)~1940年(昭和15年)
1933年(昭和8年)から順次使用が開始された。その内容は、天皇制下の臣民としての倫理を重視する傾向が顕著になり、軍事教材が増加し、国体が強調された。軍部の台頭に伴う政党政治の崩壊、国際協調体制の終焉といった社会状況が反映され、一国至上主義に偏った内容が目立った。
修身教科書は、天皇制国家を支える臣民としての心得に主眼がおかれ、国語教科書では兵隊の絵などを掲げるなど軍事教材が多く見られるようになった。このように、天皇を中心とした家族主義国家観に基づく国民教化の手段として教育、とりわけ学校教育が大きな役割を担うことになった。(5)第五期国定教科書 1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年)
国民学校制度の発足に合わせ、順次使用が開始された。修身や国語、歴史の教科書を中心に、戦時色の極めて強いものだった。国民学校令により、修身、国語、歴史(国史)、地理の各教科は国民科に統合された。とりわけ修身は、戦争遂行の「道徳的使命」の涵養を図る目的を持った科目として位置づけられた。
国定教科書は神話や戦争を題材とした教材が増加し、戦争を肯定し自発的に協力する態度を養うため、その主旨が意図的に改変された教材も多くみられた。歴史(国史)の教科書は、科学的な歴史学の研究成果とは異なる、いわゆる皇国史観に基づく天皇の事績が、神話時代に遡って語られる形式だった。地理の教科書は、敵国を知ると温情が生まれることを避けてヨーロッパやアメリカが省かれ、アジア諸国に関する記述が中心となった。
一方、理科の教科書は、それまでの知識注入主義に偏っていた内容・構成が、観察や実験を重視した問題解決型へと変化した。これは、近代的な兵器が用いられた戦争を背景に、科学的思考力の育成を目的にしたものだった。
以上が『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2』総集編 PART2(幕末・明治時代~昭和初期(戦前)編)になります。かなり長くなってしまいましたが、PART1と合せて、古代~昭和初期(戦前)までの教育史の概要がつかめたのではないでしょうか。来週からは、とうとう最新シリーズ3がスタートします。日本の戦後から現在にかけて改めて追求していきますので、乞うご期待、ということで。ありがとうございました。
投稿者 staff : 2011年01月11日 TweetList
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