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2010年11月23日

『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~8.寺子屋の衰退過程とその要因』

こんにちは
いよいよ、前回の私塾の興隆を最後に、江戸時代に幕を閉じさせていただきます
今回は、前回の予告通り、明治期の寺子屋の衰退過程と要因を見ていきたいと思います

明治期の教育の中身に入っていくにあたり、メンバー一同、あまりにも江戸時代と明治時代とで、ガラっと教育の中身が変わってしまうことに驚きを感じていました 😯 なんでこんなに、ガラっと変わってしまったんだろう・・・ 🙄
江戸時代の寺子屋教育はどこに行ってしまったんだろう・・・

でもね、やっぱりそんなにガラっと変わったわけではなかったのです
寺子屋の衰退過程と当時の時代状況にぐぐっとせまってみたいと思います

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幕末になると国内外の情勢不安や社会的危機に日本がさらされたためか寺子屋の廃業数は、全体数が増えたこともあって以前のものよりも激増しましたが、そのぶん開業数も多かったために全体数では増加し、明治時代になっても寺子屋は存続していました。

しかし、「学制」などの教育関連法が施行され、小学校が各地に開校されると、小学校と
寺子屋との摩擦 の間で寺子屋の数はしだいに減少していきました
けれども、小学校の高い学費や新しい教育制度への反発はありました。例えば、『従来の寺子屋で行われてきた個別指導と違う教育法である一斉授業を行う小学校が大衆一般に不親切に映ったこと』などです。また、『通学に際して決められた制服を着ること、さらにイスに座って行う学習スタイルに堅苦しさをかんじたこと』なども反発の理由として挙げられます。
実際当時の新聞によると、大阪府ある小学校では当初300名いた児童数が30名に減るという事態に陥り、さらに残った児童のうちの半分に当たる15名が退学予定であると報道していました。その退学した生徒のほとんどが寺子屋に出戻りしたということです。
当時大阪の就学率は67%(全国平均40%)と全国トップクラスの高さでしたが、前述の大衆一般人の反発もあって当初、小学校はうまくはいかず、そして寺子屋もなんとか存続していけたようです。しかし、政府の圧力もあり寺子屋の数は急速に減ってゆき、明治10年ごろには若干の例外を除き寺子屋はほとんど姿を消してしまったのです。

300名いた児童が30名に減ったとは
そして、小学校への反発 がやっぱりあったのだというのがなるほどですよね~
でも、政府の圧力によって、寺子屋は衰退していってしまったのですね 😥

さらに、別の角度から、当時の人たちがどう受け止めていたのか?政府からの圧力とはどのようなものであったのかにせまってみたいと思います

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1868年、大政奉還すなわち幕府から新政府への政権交代をかつて寺子屋で学んだ親たちと当時寺子屋に通っていた子どもたちも迎えます。明治5年(1873年)8月学制によって、「小学校は初級にして人民一般必ず学ばずんあるべからず」庶民からすれば”ある日突然、強制教育としての義務教育”が導入されました。 新政府は官憲を動員してしばしば父母に子どもを小学校に通わせることを迫り、働き手としての子どもを学校に取られ生活を脅かされることに反発した親たちによる「学校一揆」 😈 も少なくありませんでした。 にもかかわらず我が国は新しい義務教育を驚異的な短期間で軌道にのせることができました。その大きな理由は、明治の小学校に寺子屋の教師生徒とともに敷地や建物まで寺子屋から転用できたことが挙げられます。明治8年、小学校はすでに20,692校が開校していましたが、そのうちの16,993校、実に82%が寺子屋の転用仮校舎です。

 「学制」を発布した明治政府文部省はそのような寺子屋を指して「その師匠であるもの大概は流落無頼の徒であって自分の生計を立てるにも不能。素より教育の何足るかを知らないもの」と批判し、多くの県は官選知事の許、文部省の意向にそって寺子屋を廃絶し抑制しました。まさしく官尊民卑、民の協力を仇でかえす官の様子も伺えますが、東京府などは逆に寺子屋を保護し、寺子屋から「私立小学」への移行を認めました。

“ある日突然、強制教育としての義務教育”が導入された。当時の人々にとってはまさにそういう感じだったのですね :confused:
「学校一揆」などというものがあったことも驚きです 😯
それでも驚異的な短期間(西洋が100年に対して、日本は30年と言われているようです)で義務教育が軌道にのったのは、初期は、教師生徒、敷地や建物まで寺子屋からの転用だったからなのだというのがなるほどでした
しかし、そこから寺子屋の師匠を「教育がどういうものであるかを知らないもの」と侮蔑し、政府の思い通りの近代教育への移行を進めていくことになるのですね 8)

では、次に実は、一揆とは江戸よりも明治の方が激しかったのだという意外な事実に迫ってみます

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明治6(1873)年夏。西日本一帯で百姓一揆が群発した。福岡では筑前竹槍一揆という呼び方で知られている。これらの一揆の特徴は近世における一揆とは基本的にちがったものであった。近世の一揆は年貢の見直しを要求するものが多かったが、この時の一揆は明治新政府の政策に対する反対一揆という性格のものであったからだ。「地租改正反対」「徴兵令反対」「旧藩主御帰国」「学制反対」「解放令反対」等々である。
 福岡の筑前竹槍一揆については「解放令反対一揆」という視点から知られていると思うが、実際はこれらの要求がみな入っていたものである。「学制反対」が掲げられていることもあって、学校は焼き討ちのターゲット になっていた。これらの政治的要求はバラバラのものではなくて共通する民意を含んでいたが故に意味がある。それは従来のムラの生活を壊すものに対する怯え であった。
 典型的なのはこれらの一揆の中で血税一揆と呼ばれたものである。これは徴兵令に反対する一揆なのだが、軍事は武士のこととして暮らしてきた農民たちにとって徴兵令は理解しがたいものであった。『徴兵告諭』の中に次の一節がある。(中略)
 この「西人之ヲ称シテ血税ト云フ其生血ヲ以テ国ニ報スル」の部分を文字通り西洋人に生き血を取られる というふうに曲解し、その恐怖心から一揆となったのである。
 被差別部落も学校も同様に当時の人々にとっては彼らの生活世界に侵入してくる異界のもの 😈 と映ったのである。

当時の時代状況、人々がどのように明治政府の政策を受け止めていたのかについて、つかめてきたでしょうか
最後に寺子屋と小学校の違い、学校教育普及の目的について、簡単に紹介して終わらせていただきます

○「教える」と「学ぶ」の対立
 学校に関して言えば、寺子屋と小学校は全く存立の論理と学びの論理が異なっている。近代小学校は御上の指図によって作られるものであり、自分たちの必要によって作られるものではなかった。

●学校は定時に始まり、遅れると「遅刻」として非難される。

●学ぶのは国によって用意された教科である。

●テキストは当初は教師から提示された。ただ、それは将来的に国が決めるものとして考えられていた。つまり国家の期待する国民に必要なものとして選択される。ニーズは教える側にある。

●教科及び教科書はすべての子どもたちに共通のものを扱うことにしたため、みんなの役に立ちそうだが、誰の役にも立たないものが並ぶことになった。

●授業は教師と子どもの一対多数の関係で行われる。

○自然村の解体と行政村への再編
 学校の設置(=学制の制定)は大区小区制と並行して進められた。これは従来のムラの秩序を解体して新たな国家の秩序にムラを再編する役割を持っていた。 幕藩体制は幕府と藩の関係で成り立っており、藩はムラの行政には深く立ち入らなかった。藩は年貢を回収できればいいのだし、村役人は年貢をとりまとめればよかったのである。藩が管理するのは村役人までで、二重の支配構造が近世的秩序の原理であったと考えてよい。
 しかし、身分制度を廃止し、近代国家を構築しなくてはならない新政府にとって、その近代化政策を揺るがすものは近世的なムラの秩序であった。これを解体して国家の秩序に再編することが明治維新の原理だったのだ。大政奉還は変革の第一歩に過ぎず、歴史的な転換は廃藩置県であり、それに続く身分制度の廃止、大区小区制によるムラの解体、そして学校教育の普及だったのだ。

ここまで、寺子屋の衰退過程とその要因、そして当時の時代状況について、紹介してきました ただ、当時の政府と言われても、そこを主導してきたのはどういう人たちであったのか?どういう力が働いていたのか、明治の教育の具体的な中身とは?などなど、気になることがたくさんありますよね
次回以降扱っていきますので、お楽しみに

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投稿者 tateko : 2010年11月23日 List   

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コメント

私利私欲を求めて寺子屋(現代だと塾)に殺到したのもつかのま、社会の仕組みはあいかわらず年功序列+血筋優先システムであることに、多くの人が気づいた結果が、一揆。つまり問題解決手段が暴力という野蛮人であることを証明してしまう悲しい結果です(客観的な判断です)。

結局寺子屋でも、問題解決手段を、暴力から一歩レベルの高い手段を創造できる人材は生まれなかったということが、寺子屋自体の衰退と、その後の軍国主義へのストップがかからなかったという悲劇につながったんだろうと思います。

ちなみになんでもかんでも問題解決手段を暴力優先にするのは、現代も一緒です。(ここのブログ主様のように、自分は例外と思っている方ばかりで恐縮ですが)

投稿者 Armed Love Power : 2010年11月27日 09:42

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