現行の『婚姻制度』~その中身と成り立ち(5) 村落共同体の規範について |
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2010年03月09日
現行の『婚姻制度』~その中身と成り立ち(6) 家庭とは何か?1930年、高群逸枝はかく語る。
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高群逸枝とは、明治~昭和を生きた詩人・女性史研究家。平塚らいてうと共に女性運動を始めたり、大東亜戦争に対しては狂信的に賛美するなど、多彩な活動をしてきた女性のようです。
今回は、彼女が昭和の初期に語った家庭像について見ていきたいと思います。「家庭」その語源と意味について、また昭和初期のインテリ層の家庭の姿が見えてきます。
家庭とは家の庭と書きます。
まず、家という字-古い書物によりますと、この家という字は、豚の上に屋根のかぶさった字、すなわち豚小屋という意味の字であると書いてあります。みなさん。
神聖なるべき「家」が、「豚小屋」を意味するなんて、少しおかしいですね。で、これについて多くの学者が、種々の説を立てています。ある学者は「家とは私有財産のことだ」といっている。昔、シナ人の主な財産は豚であった。彼らはそれを初めは共有していたが、権力者の出現とともに、私有が始まり、したがって、めいめいが屋根囲いの厳重な小屋を建てて、それらの豚どもを入れて置くようになった。それが家の起こりだ。だから、家とは、豚とかその他すべての私有財産を入れて置く建物のことだというのです。
いきなり「豚小屋」とはビックリ 😯 でしたが、「私有財産」のことを指すという意味があったんですね~。
初めはみんなで共有していた豚を、権力者がやって来て掠奪してしまった。権力者はその力の象徴として蓄財の大きさを競うようになり、掠奪した豚を私有物として厳重に囲ったというのが、私有の始まりなんですね。
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続けます。
家財という言葉がある。この言葉は、普通の意味では、家具に等しい。しかし、少し立ち入って研究して見ると、「自分の所有物の意。すなわち妻子財産等をいう」とある。
みなさん。
よくここで注意して下さい。家財とは「自分」の所有物の意とある。家(カ)ということが、ここでは自分という意味をもっている。例えば家言(カゲン)ということが一個人の言説という意味であるなども、その一例である。かくのごとく、家(カ)は自分であるから、家財はすなわち自分の所有物という意味になります。さてまた、その「自分の所有物」なるものは、「妻子財産等という」とあるから、その場合の自分なる人間はいうまでもなく妻子財産を有する「男」である。「男」のみが、「家(カ)」として立つことができるし、「婦人や子供」は「家財」でしかない。
家というものは私有財産を入れておく建物であり、また、他面、その所有者の存在を意味するものであることがわかりました。早くいえば、一人前の男は家という私有財産をもってなければならない。それをもっていることによってのみ一人前であるかないかが決定される。
朝鮮などでは独身の男はチョンガーといって軽蔑される。インドでも家を持たない男は男と認めないという風があると聞きますが、もちろん、この風は、日本にもある。
それは単なる「独身」を軽蔑するのではなく、「私有財産」のないこと軽蔑するのである。
妻子を私有財産として所有しているということは、男にとっての非常な誇りである。だから、男は、ともすれば、妻子を私有財産に取り扱いたがる。わが国などにもこんな男がたくさんいる。
「『家庭を持つ』という言葉は、男しか使わないですよね。」
議論に参加した女の子が発した言葉ですが、確かにその通りです。そして家庭を持たなければ、社会的に一人前と認められなかったんですね。それが社会的共認となったため、男たちは必死になって家庭を持とうとしたのでしょう。
家庭の庭の字を調べてみると、「庭とは庁と同義なり」とある。庁というのは、「政治をおこなう場所」であり、「罪人を検挙し、罪状を取り調べる役所」である。
いったい、政治、法律の起源をたずねると「罪あってしかるのち政治あり法律あり」である。政治や法律は、罪人がなくては成り立たない。モーゼの法律なども、罪人のためにできたもので、人間を罪人と考える時に、はじめてすべての法律には意義がある。
死んだ高畠素之は、性悪説の主張者で、したがって国家主義者だった。この点、彼は正直であり、徹していた。人間を罪の子と見なし、悪人とみる見方の上にのみ、法律や政治、すなわち国家は、自己の存在を正当化して主張することができる。
では、法律や政治は、何のために人間を罪人であるとしなければならないか。「それは法律や政治」自身が罪人のものだからだ。
「つまり、少数の罪人(物や人を財産として私有しようとしたり奴隷として虐使しようというような欲望を起こした少数の罪人)が、自己の欲望を遂げようとすると、そこには種々の叛逆がおこる。それを彼らは罪悪と称し、それらの叛逆人を罪人と見なして、そこで法律を作ったり、政治を行ったりするのである。だから、政治や法律こそ罪悪そのものであるし、それは、少数の罪人によって作られたものである」と本居宣長は言っている。
家庭の庭の字は庁の字と同じ意味の字、さてまた、その庁の字は「政治を行う場所」であり、「罪人を検挙し罪状を取り調べる役所」である意味の字である。
そうとすれば、家庭の庭の字は、私有財産として取り扱われている妻や子を罪人とみなし、ゆえにそれらを取り制え取り締まるための役所である意味である。
家法とか、家憲とか、家道とかの文字は、すべて、家庭の庭、すなわち、家庭における罪人どもを取り調べ取り締まる役所から発布される法律であることを意味している。
妻や子は罪人、それを家長が取り締まる。それが家庭???
少なくとも、法律の起源が少数の罪人が前提になって作られているというのは実感できます。そして現在でも、個人の好き嫌いといった価値観念が勝手に罪人を生み出し、とんでもない法律が次々と作られているではないですか!
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みなさん。
文字からみた家庭は、たいがい、こういったもので、決して神聖な場所どころか、罪悪の巣窟であり、刑務所である。「文字は一切の哲理だ」といい、「言葉は神なり」というが、まったく、文字に現れた家庭の真相は神のように正直で、実際的である。
もっとも、人間の住むところ、そこには常に、相互本能の変形としての、何らかの情緒がある。封建時代の君臣の間には君臣的な情緒があり、君は臣に対して慈、臣は君に対して忠であった。そのように、家庭にも「家庭情緒」があり、家主は家族に対して慈、家族は家主に対して忠であるべきとされる。
だが、私たちが、たとえばお芝居や小説や、たまに実際のそうした君臣の情や家庭間の愛をみて、「美しい」と感ずるのは、慈だとか、忠だとかの階級的道徳に対してではなく、その道徳の仮面のしたから曲りなりにも現れる「相互扶助本能」すなわち階級を超え、法律を絶した原始平等の相互愛の姿に対してである。
ところが、ひとびとは、それをそうはみないで、仮面そのものを見て、直ちに君臣賛美、家庭賛美に走ることがある。だが、その実そうした仮面は、真情を妨げることのみに役立つものでしかない。
その証拠には、芝居や小説にもあるような君臣の情や家庭の愛は、実際はごくまれであって、ある婦人雑誌が、知名の文士たちに「家庭に関する正直な感想」をもとめたところが、その九分七厘までが「結婚は墓場で、家庭は牢獄だ」と答えているが、そのまた妻君たちは、別の雑誌で、それらの文士たちが家庭にあって、いかに冷酷で、野蛮人で、人非人であるかを暴露している。
とにかく、多くの家庭がうまくいっていないことは事実で、徳川時代に書かれた「庭訓」とか、「女鑑」とかいう書物を読むと、「女は邪険で、陰険で、姦キツだ」と毒づいてある。古くからの家庭で、女がいかに持て余されていたかが分かる。つまり、女の「人間性」が家庭というものといかに衝突してきたか。
これまでの家庭主義者は「女よ家庭に従順であれ。そうしてこそ家庭悪はなくなるのだ」といってきたが、なくなるどころか、いつまでたっても、かえって多くなるばかり。
そこで、目覚めた婦人は「家庭をケトバス」ことが唯一最上の手段であることを知った。
家庭とは何か。元来それは豚小屋と刑務所を意味しているのではないか。
いかがでしたか?
家庭は豚小屋であり刑務所だ。。。とスゴイ言われようです。ここで紹介されているのは明治~昭和初期にかけてのインテリ階級の家庭の姿ですが、はたして現在の家庭はこんなんじゃない!と真っ向から反論できるでしょうか?
農村生活では、みんなの生産課題をみんなで共有し、村も家庭も一体となって生きてきたことに比べ、農村から都市に出たことで、生産課題が家の外にしかないとすれば、家庭とは私有物を蓄えて消費だけを貪り続けるしかない空間にならざるを得ないのは間違いないでしょう。現在の家庭がガタガタになった理由とも言えます。
そう考えれば、豚小屋であり刑務所だ。。。というのも納得できるのです。
今日はここまで。
次回は、社会の統合という視点で歴史を見てみたいと思います。お楽しみに!
投稿者 hiroaki : 2010年03月09日 TweetList
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