「闘争不在、解脱埋没」という特異な30年が終わった(前編) |
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2009年10月18日
「闘争不在、解脱埋没」という特異な30年が終わった(後編)
この画像はこちらからお借りしました。⇒(リンク)
>ようやく暗闇の中から「新しい可能性」が充足収束という形として表出してくる。
>しかしこの90年代の充足収束は不安解消という私的不全に対する癒しとはなっても、不安の根源をなす統合不全そのものを解消しうる答えとはいえない。
前日の記事の続きです。
90年代以降、人々の意識がどのように変わり、どこに向かおうとしているのか見てゆきます。
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しかしこの90年代の充足収束は不安解消という私的不全に対する癒しとはなっても、不安の根源をなす統合不全そのものを解消しうる答えとはいえない。02年、「改革の期待」を集めた小泉内閣すらもはやあてにならないと大衆は理解し始めたことで、この統合不全はマスコミや官僚たちに任せておけない、みんな不全となった。貧困の消滅から30年の歳月を経て、みんな不全が再生したのだ。
91年平成バブル崩壊、98年金融危機、2002年ITバブル崩壊、と経済・社会は大きな変動が繰り返されました。また、95年は阪神・淡路地震が起こり、さらにオウム真理教による一連の事件から教団の異様な実態が明らかになり、世間を驚かせました。
このような世相の中、私的な充足を得ても何の解決にもならないことが、人々の心の底に刻みこまれてゆきました。
そのような状況を捉え、マスコミの支援を得て、巧みなワンフレーズで一気に首相の地位に上り詰めたのが小泉首相。「とにかく、閉塞感が漂うこの社会状況をなんとかしたい」と感じ始めていた人々は、マスコミの誘導もあり、まんまと乗せられてしまいました。
2001年の自民党総裁選挙では形勢不利と見られていましたが、「自民党をぶっ壊す!」「抵抗勢力」といった巧みなワンフレーズを駆使して予備選で圧倒的な支持を獲得し、総裁の座を射止めてしまいました。
さらに、2005年の「郵政選挙」では2001年以上のマスコミ総動員の「小泉劇場」が演出されてまんまと勝利し、郵政民営化法案が成立してしまいました。
しかし、その後の自民党政権の迷走振りや社会の閉塞状況の深まりから人々はもはや小泉路線の改革ではだめなことに気が付き始めました。今年の衆院選での民主党の圧勝は、このころから方向付けられていたとみなせます。まさに、小泉氏は自民党をぶっ壊すことを実現させました。
これを受けて、今の若い子たちは一気に社会的役割欠乏へと収束しだした。闘争を失い解脱埋没していた「何か面白いことはないか?」欠乏は解脱ではもはや飽き足らなくなり、「遊んでいても、実は盛り上がれてない」「仲間といっしょでも何かものたりない、ビミョー?」「表層的な人間関係って変!」といった「闘争不在、解脱埋没」への違和感が鮮明になりつつある。
そして解脱埋没を脱して「やりたいこと=社会的役割が見つからない」という(社会統合上≒認識闘争上の)役割欠乏へと収束しつつある。更には「くっていくだけなら困らない」故に役割欠乏は現実的には「本当にみんなの役に立つ仕事」への欠乏として先端収束し、70年以来一貫してマイナス視されてばかりだった政治家を志望する若者が急速に増えつつある。あるいは「役に立つ仕事」欠乏という流れの中に(自衛官や消防士等の)公務員志望や(福祉関係やロースクールといった)資格志向の増加、さらには授業出席率の上昇(結果的に旧観念支配の強化)といった現象も包摂される。
「就活」が学生たちの一大課題になって来ていますね。マスコミはあいかわらず、より報酬の高い企業や社会的にメジャーな企業に人気が集まるといった見方しかしていませんが、若者たちの求めているところはまさに「社会的な役割」、「社会に役立てる仕事」といったあたりです。
いまや、GMのような世界的な大企業でも倒産しかねないわけで、社会から求められる役割を果たせなくなった企業は、どんな大企業であっても退場させられることになります。
米国サブプライム問題から一気に世界中を巻き込んだ金融恐慌に突入し、市場のおかしさ、不条理なさまがあからさまなるにつれ、社会に向きあい始めた若者たちにとって、旧来の利益優先の企業活動はもはや何の魅力もなくなってきているようです。
「闘争不在、解脱埋没」という特異な30年は終わった。90年代の充足収束において実現された「自分からみんなへの転換」を足がかりに「解脱埋没から闘争あっての解脱へ」ついに転換を遂げたのだ。残された課題は、「答えがないから旧観念支配に絡めとられる」という部分の逆転である。
いまの子どもたちは、受験勉強でさえ、みんなと一緒に勉強して一緒に合格することを目指すことが最も活力のでるやりかたになってきています。
まさに、「自分からみんなへの転換」は現実のものになってきています。それを妨げているのが、大人たちの古い考え方。「自分らしく」、「個性を生かす」といった言葉を投げかけられて、子供たちの心と頭が引き裂かれることが繰り返されてきました。
しかし、心身ともに健全な子どもを育むことが大事、子どものときから協働活動や共同生活を体験させることが大事、といった認識が広がりはじめ、旧観念支配からの脱却に向けた様々な取り組みが始められているようです。
byわっと
投稿者 wyama : 2009年10月18日 TweetList
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コメント
投稿者 かわい
>「答えがないから旧観念支配に絡めとられる」という部分の逆転である。
答えがあれば、絡めとられないか?
“答え”は、るいネットをはじめとして既にある。といっても過言ではないだろう。
いかに、その答えを看取するか?
潜在思念を、いかに言葉化するか?
観念が本能と共認を充たすために創られたように、共認充足を媒介にした方が習得しやすい。
答え以前の共認の部分が、錆び付いているなぁと感じている今日この頃です。
投稿者 nishimu
共認欠乏・本能欠乏の活性化による性の再生は有り得ないのか?を考えてみました。
現段階で既に顕現している、仲間との期待・応望の規範共認がその導きとなりそう。
生物にとっての本源的な性闘争本能とは何か?に立ち返ってみると、生物種全般にとっての課題である外圧適応の為の様式であり、常にその対象は『種=みんな』の充足の為に生起する回路。
これこそが、本能欠乏の活性化によって導かれた中間解であるとするならば、表層に留まらずにもっともっと相手の期待に応え、充足を深めていけば良い。その深い充足の為の闘争共認(みんな=お互いの為の闘い)こそが、結果的にはお互いを体の芯まで充たしてくれる、人類にとっての性の再生そのものへと発展していく萌しになるのではないでしょうか。