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2009年07月03日

全人教育って、なに?-6@全人教育に真っ向から取り組んでいる「類塾」の紹介

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写真はこちらからお借りしました

みなさん、こんにちは 😀

『全人教育って、なに?@ ○◎△□』シリーズとして、ここまで

第1回@全人教育の本質
第2回@昔に見る事例(口承文化)
第3回@村落共同体の教育
第4回@農業教育in学校
第5回@@全寮制から学ぶ全人教育事例

をお送りしてきました

そもそも、「全人教育ってなに?」シリーズに取り組んできたのは、
前回お送りした「これからの教育ってどうなん?」シリーズ(リンク)から見えてきた、
これからの教育のあり様とは?という問題意識に端を発しています

そして、これまでのスパルタ教育路線、あるいはゆとり教育路線に変わるものとしての、「全人教育」についての具体イメージの提示、

①生産課題に繋がるみんなで共有できる目的意識の形成
②仲間同士の規範確立
③社会を対象化できる統合理論の習得
④これらを実践していける場の創出
(第1回より)

その萌芽と思われる事例

「口承」とは、現代で言う「教育」の場、様式であったようですね。そこでは、生きていく上で必要な認識が伝えられるのですが、現代のように知識だけを伝えようとするのでなく、濃密な共認充足の場とセットになっている所が非常に重要なようです。本物の教育の場は共認充足の場であるということですね。(第2回より)

ひとりでは到底生きていくことができない厳しい外圧の下では、村の一員として=よき村人として、集団を維持継続させていくことが最重要課題だったのですね。この教育の場は、公生活(社会生活)の場であり、それが若者組でした。(第3回より)

当然のことながら、社会での活動は全て、「生産活動」。農業生産(林・漁業等も)・工業生産・意識生産。学校は、真っ当な社会人を育て上げる機関だとすれば、生産活動→生産課題が包摂されていないと、本来おかしいですよね。第4回より)

以上のように、全寮制教育による全人教育の可能性とは、やはり勉強だけにとどまらない社会人としての基礎(集団力)を学ぶ場だと感じました。第5回より)

を紹介してきました

さて、最終回では、2部作として、

第6回@全人教育に真っ向から取り組んでいる「類塾」の紹介
第7回@「類塾」の具体的なカリキュラムの紹介

をお送りしていきます これからの教育のあり方、
教育に留まらない新たな集団のあり様の提起として読んでいただければと思います 😀

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「類塾」とは、(類グループHPより

■勉強だけの子にはしたくない

 類塾は、大阪北部に38教室を開設。小中学生を対象に教育活動を展開しています。生徒数1万3000人を有し、北野高校の60%など公立トップ校の合格者の過半を類塾生が占め、地域の圧倒的な評価を得るとともに、次代の教育を提案しつづけています。
 いじめ、学級崩壊などの問題が顕在化する中、従来から受験指導を超えた人間教育を目指してきた類塾は、仲間とともに課題を達成する体験や工夫を積み重ねる体験を「グループ学習」「自然体験教室」としてカリキュラム化するなど、子供たちが皆で成長できる仕組みを作ってきました。さらに、子供たちの本物の思考力を培う「本格コース」も開講しました。
 それらの推進力となっているのが、他に例のない共同体としてのあり方です。そこで追求されてきた確かな状況認識と本源的な人材育成を進めてきた蓄積が(他塾とは)違います。みんなの期待に応えることを活力源としてきた共同体だからこそ、年々仲間収束(自分からみんなへ)や「みんなの役に立ちたい」という社会的役割欠乏を強める子供たちにマッチした新しい教育のあり方を提案し、子供たちの本源的な活力を導き出すことができるのです。

基本戦略

類塾は単なる受験教育を超えた「将来に生きる本物の指導」を創設以来の教育方針としてきましたが、いじめ・不登校など様々な教育問題が顕在化する中、より本格的に「たくましい子を育てる教育」を目指して、父母ネットワーク、子どもネットワークづくりをはじめ、教育体制・カリキュラムなどの根本的な転換を推進しています。

■勉強するのは何で?働くのは何のため?  

一昔前は勉強する意味がはっきりしていました。「勉強しないと将来苦労する」という言葉が示していたように、「いい大学→いい会社→いい生活」という確実な人生コースを歩むためには「勉強が必要」だったのです。つまり、貧しさから脱出する、という絶対的な圧力があったが故に、人々は「お金や地位」を求め、そのための学歴、そのための勉強という形で「勉強の必要性」を感じとっていたのです。 ところが現在、フリーターの激増や、特に出世したいと思わないという若者が過半数ということに象徴されるように、貧困が消滅し、豊かになった結果「お金や地位」は明らかに第一義的価値ではなくなってきました。その結果、子どもたちの中でも、勉強しなければならない根本理由が曖昧になってきています。  これらのことは、別の視点で捉えれば次のことを意味します。「いい大学→いい会社→いい生活」を目指すのは、自分の利益の獲得が目的です。つまり、この間の状況は、貧困が消滅し豊かさが達成されるにつれて、この「自分のため」という活力源が、どんどん衰弱してきた過程なのです。従って、もはや今後「自分のため」だけでは大した活力も勉強に対する意欲も生み出せないでしょう。それどころか、このままいけば活力が限りなくゼロに近づいていくことは明らかです。それを暗示するものが子どもの慢性疲労、或いは学力低下、さらには、ひきこもりの増加等なのです。

■「自分からみんなへ」活力源の大転換  

では、どうすればいいのでしょうか?今なすべきことは、「自分」に代わる新しい活力源を発掘し、新しく勉強の意味を位置づけ直すことです。ここで、若者や子どもたちの根底的な意識の変化に注目する必要があります。NPO・ボランティアの流行や、福祉関係等、社会に貢献できる仕事への人気が高まっていることに象徴されるように、今若者たちの意識の中で強まっているのは「社会(=みんな)の役に立ちたい」という思いです。  この思いは子どもたちの中ではさらに顕著です。子どもたちを見ていて、彼らがイキイキし、活力を出しているのは、みんなと一緒に充足している時です。実際、家では勉強しない子どもも、類塾の自習室ではお互いに教え合いながらイキイキと勉強している姿をよく目にします。つまり、心の奥底で、今子どもたちが求めているのは、「みんなに喜んでもらうこと」「みんなの役に立つこと」なのです。これは、明らかに旧い「自分のため」に代わる新しい活力源です。 我々は、子どもたちの活力源が「自分からみんなへ」と既に移行していることを、はっきりと認識転換する必要があるでしょう。逆にいえば現在の子供の活力衰弱の姿は、心底の新しい欠乏(=みんな)と現実の制度や勉強課題の有り様がズレていることに起因しているのです。 だとすれば、新しい勉強の意味も、この「みんなの役に立ちたい」という新しい意識潮流に立脚する必要があります。そう考えれば、この新しい現実に立脚した、今後の新しい勉強の意味・勉強の必要性とは、「社会に出てみんなの役に立つこと」というあたりにあることが浮かび上がってくるでしょう

普通の塾とは違う ということが感じ取ってもらえたでしょうか?
類塾が提示しているのは、将来に生きる本物の指導
新世紀を生き抜いていく子供たちが、さまざまな困難や課題を、自ら突破し、解決していくことができる“強くたくましい力”を身につけされること」なのです。

(tateko)

投稿者 staff : 2009年07月03日 List   

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