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2009年06月28日

全人教育って、なに?-1 @全人教育の本質

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コチラから拝借しました

今回は『全人教育って、なに?@ ○◎△□』シリーズで計7回を予定しています。
初回は「全人教育の本質」と題して、求められる教育とはなにか?に迫って見たいと思います。
以降は、昔に見る事例、現代の取り組み、先端事例(:いずれも仮称)などを順次アップしていきます :tikara:

まず、『全人教育』とは世間ではどのように捉えられているのか?を見てみます。
Yahoo!百科辞典では

「調和ある人格の形成をめざす教育。知育偏重の教育に対して、徳育・体育および情操教育を重んじるもの。」

音楽、体育を重視した古代ギリシアの教育以来、身体と精神の全面的・調和的発展の教育思想はヨーロッパ教育思想の基調ともなっている。18世紀のペスタロッチにおける頭・手・心、つまり知的陶冶(とうや)、身体的陶冶、道徳宗教的陶冶の各領域を調和的に発展させるべきであるという主張は近世教育史上における典型であって、進化論から強い影響を受けた19世紀のスペンサーのような実証主義者も、知育・徳育・体育の各面にわたる全人の教育を説いている。

20世紀に入ってからの全人教育の目標は、単に個人としての人間性の諸要素を全面的、調和的に発展させるというにとどまらず、社会生活における調和が重視され、ドイツの教育学者シュプランガーEduard Sprangerの文化教育学、同じくナトルプの社会的教育学にみられる主張がある。今日の全人教育は、一方で各人が専門的知識、技術をもつと同時に、社会生活において感性、徳性の調和を重視することが目ざされている。

日本では大正年間以降、小原国芳(おばらくによし)によってこのことばが使用され(1921)、主張された。彼によれば「全人教育」とは完全人格、すなわち調和ある人格を意味し、教育の内容は人間文化のすべてを盛らねばならないとし、全人教育でなければならぬ、と主張された。

と掲載されています。

日本で最初の提唱者である小原氏によると

全人とは小原の説明を借りれば、「全き人間」(the whole man)という意味であり、教育の目的は、人間文化の6つの要素である学問、道徳、芸術、宗教、身体、生活について、それぞれの理想である「真」、「善」、「美」、「聖」と、それを支える補助的な価値として「健」、「富」を備えた完全で調和のある人格を育むべきであるとするものである。この理念のために、従来の教育で欠けていた道徳、芸術、宗教などを重視した。

と言われています。

「全き(まったき)人間」、「完全人格」、「完全で調和の或る人格」って、一体どういうものなのでしょう。

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「全人教育」という言葉でネット検索すると、様々な学校で取入れられている理念ということが分かります。その中味は案外バラバラで、その中でも敢えて共通項として取り出すとすると、「自己の確立」と「社会で役立つ人間の育成」が主要な骨格となっているようです。

「自己の確立」を推し進めると社会性が劣化してしまうということはこのサイトでも何度も登場しているように、「社会で役立つ人間の育成」とは矛盾する内容です。

そこで、もっと本質的に「全き人間」を捉えるとすると、人類の本質を捉えた事実として以下の内容がピッタリ です。

全ての生き物は、闘争も生殖も全てを包摂した集団(=本書ではそれを本源集団と呼ぶ)の中で育まれ、進化してきた。人類も同じであって、人類五〇〇万年の歴史の99.9%は本源集団のもとにあり、過酷な闘争=生産の営為も、心を開き合う仲間との親和も、あるいは喜びを与え合う男女の和合も、それら全てが包摂された集団の中で人類に進化してきた。そこでは互いの性充足や親和充足を母胎として、皆で課題を共認し、規範を共認して(正確には、これらの共認に収束することによって)集団を統合し、他方、人類の命綱とも言うべきこれらの共認充足を破壊する性闘争や自我(エゴ)は、固く封印されてきた。

『実現論:序文・ニ.起点は、私婚⇒私権の共認と私権闘争』より)

だが、それだけ(本源集団再生)では不充分である。なぜなら、人類が今ぶつかっているのは、集団を超えた地平にある社会を、どう統合し直すのかという課題だからである。

『実現論:序文・ヘ.集団を超えた社会をどう統合し直すか?』より)

この事実からすると、
本来の全人教育とは、
①生産課題を共有する(本源)集団を形成していく
②その中で心を開き会い仲間との親和充足や性充足関係を構築していく
③集団を超えた社会を対象化し、統合課題に取り組んでいく

これらのことが出来るように教え導いていくことだと言えるのだと思います。

そのために、次代を背負っていく若者に何を教え導いていったらいいのか?
①生産課題に繋がるみんなで共有できる目的意識の形成
②仲間同士の規範確立
③社会を対象化できる統合理論の習得
④これらを実践していける場の創出

ということがいえると思います。

😀 これらの達成目標をキーワードにこれからの全人教育の可能性を追求していきます

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以下のるいネットの投稿を参考にしました。

人格の形成は、母子や仲間との親和充足体験=期待・応合回路の形成をもって始まります。そして、期待・応合回路が発達してゆくにつれて、その先に課題共認や役割共認や規範共認あるいは評価共認etcの共認回路が形成されてゆきます。それに伴って、周りのそれら様々な共認内容に対する否定を源泉とする自我回路が形成され始めるのです。共認の敵対物たる自我は、その後しばしば凶暴な他者否定・自己正当化の相貌を露わにします。それに対して、親和共認や役割共認や規範共認etcの共認回路が自我回路を制御(一部は封印)することによって、人格は成長してゆきます。

自我ではなく、共認こそ原点である

学校とは何のために有るのだろう。昔、皮肉屋の友人が「決められた時間、皆がそろって同じことを出来る質の揃った労働力を育成するため」と言っていたのを思い出す。
 確かに一斉授業は、皆で同じことをやる訓練としては最適なシステムだ。そして、日本の質の高い工場労働者が日本の経済成長を支えてきたのも事実だ。

勉強はなんのために?

社会に関わっていく、現実社会を対象化していくためには、こうした統合理論を体得することが基礎的な教養として必要になってきますが、大学では教えてくれません。

統合理論を学ぶ授業がないなら、自分達でつくってしまう

この多面的に物事が見れるという段階から個別問題を切り込んでいける武器にまで磨き上げるには人によって差があり、かなりのトレーニングが必要にはなりますが、実はこの過程こそ学習過程であり、武器を使っての活動は創造行為そのものであると思うのです。

本当の勉強とは統合理論を使った創造活動。

子どもが社会に出て行くためには、やはり一定の強制的な訓練が必要である、という意味においてです。仲間関係、組織、集団というものを理解して協調するという態度は、訓練しなければ身につかないものだろうと思います。これは訓練ですから、当然ながら強制力をもつものでなければ意味がありません。前にも少し書きましたが、「一人ひとりが集団や社会とどのような関係を結んでいるかを常に自覚して行動するという人生態度そのもの」という「教養」をしつけなければならないということです。

教育者は、エライのか?(4)

農の持つ「効用」で、実感上及びデータ上確かめられていることとして、自然体験や生活体験(果物の皮をむく、野菜を包丁で切る等)の有無や頻度と、道徳観・正義感(ex.友達が悪い事をしていたら止めさせる、席を譲る等)とは強い相関関係があるという点が上げられます。
 おそらくそれは、自然の圧力を前にしての自己の制御、自然の持つ癒し効果による充足感情、協働作業による達成感や一体感の充足の体験等に起因するものと考えられます。また体や手を動かす事と、自我の制御とが何らかの形で関わっているのかもしれません。

上中町企画需要分析③体験教育(農が教育に及ぼす効果)

投稿者 sashow : 2009年06月28日 List   

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