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2009年05月08日

これからの教育って、どうなん?-6 これからの教育

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みなさん、はじめまして miyukoです

今回、初めてブログに参加させていただきます
よろしくお願いします :love:

『これからの教育ってどうなん?』シリーズも、早くも第6弾

これからの教育ということで、これからの教育はどこへ にせまってみたいと思います

論語、儒教研究の第一人者である立命館大学教授、加地伸行氏が
日本人の文化や伝統とは合わない「欧米流の考え方」を取り入れてしまった戦後の日本の教育の問題点を指摘しています。 

「(欧米人の)『自由』や『個性』の概念は『神』という抑止力があってこそ成り立つ。それがないと、単なる利己主義になってしまう。学校の大切な役割は、人間が生きていく上での『型』を子供たちに教えることにあり、今こそ日本人に合った教育を取り戻すべきだ」(加地伸行)

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「加地伸行氏「正論大賞受賞記念」東京講演の要旨」より引用。
 日本の戦後教育は「欧米のものまね」だった。だから日本人には合わないところがある。フランス革命が教えた「平等」なんて、学校で言うから子供たちの苦しみが始まるのだ。
 東アジアには東アジアにあった教育があった。人間をどう見るか、人間に合うようにどう教育していくか。それを体系化したのが儒教だった。実は儒教は、「人間平等」なんて思っていない。1、2割は優秀だが、あとはボンクラというのが儒教の人間観だ。
 だが、今の学校は「みんな優れている」「個性がある」という。儒教は優秀な人は相手にしない。優秀な人は自分で切りひらく。ボンクラをしっかり教育しようというのが儒教だ。難しいことは教えないで、大事なことをしっかり教えよう。だれもが学び、理解できることを教える。それが「型」なのだ。学校の大切な役目は「型」を教えることにある。大半の人は型を教えないと、どうしていいのかわからないからだ。わけもわからないままに社会にでてから困る人がどれほど多いことか。

「平等」「自由」もまた問題だ。本来は欧米の思想であって、(戦後教育では)教え方がまちがっている。自由というのは欧州では、自分で自分を律する(自律)。自分で律することができなかったら自分で立つ(自立)ことができない。立てば自己責任が出てくる。これができてはじめて個人主義が成り立つ。なぜ欧米人にはそれが可能なのか、というと、抑止力をもっているからだ。「神」が許さないのだ。欧米人には、唯一、絶対、最高の「神」が抑止力としてあるが、わが国にはそこが抜けている。それがないまま「個性」や「自由」を教えると、単なる利己主義になってしまう。
 われわれにもかつては抑止力があった。東アジアの人間に共通する「祖先」だ。中東の地域ではユダヤ教やキリスト教、回教の一神教が生まれたため、祖先を敬うような考え方にはならなかった。祖先崇拝の大切さが残っているのは東アジアだけなのだ。
 日本のお盆の迎え火や送り火もお釈迦様ではなく、ご先祖様だ。昔、空襲のとき、母はご本尊よりご先祖の位牌(いはい)をもって逃げようとした。それが日本の仏教なのだ。
 教育学者や心理学者は家庭や親子関係の問題で、「もっとコミュニケーションをとれ」というが、われわれ日本人はそんなことが苦手。それよりも仏壇の前で家族で一緒に手を合わせたほうがいい。

欧米式の教育思想を取り入れてきた結果、いろいろな弊害が出てきています
個人主義思想がベースにある「自由」や「個性」を強調する教育は、「他人」よりも「自分」が原点にあるため
他人と協調することや、規範を守るといった意識が育ちにくくなっているのが現状です

 「個人主義は利己主義を正当化しただけ」 

個人史を振り返っても、また最近の社会の流れをみても「個人の尊厳」や「個人が原点」という教育は、結果として「文句言うな、俺の自由だ」「人に迷惑さえかけなければ何をしてもいい」等の、価値観と言うにはあまりにもお粗末なものだけを植えつけたにすぎないのではないかと痛感します。 実際、自由な個人の名のもとで、あらゆる規範や義務はどんどんないがしろにされていくばかり、その崩壊のスピードは目を覆わんばかりです。
…おそらくこの観念は社会や相手などの対象を、もともと欠落させ捨象しているが故に、(人のために今)何をすべきかという視点をすっかり見失わせてしまうのでしょう。
他にも、現実の問題に対してほとんど何も成し得ていない『教育思想』についての投稿↓↓↓
「自由」だけを与える学校  
「戦後教育思想の問題点」 

今、日本で求められている教育の在り方とは
加地氏も述べているように、子供たちを「型」にはめる=規範意識を育てる ことにあるのではないでしょうか。
指導要領の中にある生きる力とは「人々と協調し、社会に適応していける力」であると捉えることができますが、
人と協調して社会に適応していくためには「規範意識」をもっていることがとても重要になってきます。
「自我=エゴ」を制御するもの
そうすると学校の役割とは、集団生活を通して子ども達の中に「規範意識」を育てていくことなのだということがわかります。

「学校の役割とは」  

学問、勉強、学校、といったものには、大別して二つの流れがあると思う。「教」という文字には、子供を鞭で叩くという意味があるという。これには、子供は生まれたそのままではまだ人間ではなく、鞭で叩きながら道徳心や知識を教えることによって人間になるという考え方が表現されている。日本の学校では、単に講議をするだけではなく、掃除をさせたり、挨拶や礼儀・道徳、集団行動の規律などを教えたり、「しつけ」「精神性の成長」という機能がある。これが一つ目の流れである、「子供を社会的な人間にすることを目的とした学校」である。
ピアノや書道などのお稽古事も基本的にこの考え方の延長線上にあるし、「読み・書き・そろばん」と言うように、寺子屋もそうしたものであっただろうと思われる。これを「東洋的流れ」と名付けたい。「勉強」という文字にも、(嫌なことを)強いてやる、という意味がある。

現実には役に立たない理想論ではなく、現実の社会に適応できる人材を育てていくことが本来の教育の目的であるのであれば、教師は「社会の現場」をよく知っている必要があります。
「「教育再生会議」は教育を再生できるのか」
そもそもどうやって教員の質を上げていくのか。なぜ教員のレベルが低いのか。今の教員は、大学を出て、社会も知らずに教職に就いた人ばかりで、学校という閉鎖社会しか知らない。本当の社会を知らずに育った。そういう教員が「社会の現場」について語るなんて、無理に決まっているではないか。 

しかし、以前の投稿(「これからの教育ってどうなん?-3」 )にもありましたが、
「与えられた権限が限定的であるために起こる学校運営の硬直化」
によって、実際は教員が③「社会の現場で闘う存在」④「資格による教員の雇用・配置」からどんどん離れた存在になってしまっているということが現状です

こういった官僚教育制度が弊害となり、学校は本来の教育の目的である子どもを社会的な人間に育てるといった役割を上手く担えずにいるようです 🙁

投稿者 staff : 2009年05月08日 List   

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コメント

教育シリーズ、楽しく拝読させて頂いています。

先日、調べ物をしていてたまたま見つけた江戸時代の教育に「大人しぐさ」というものがあり、3歳~15歳までに、段階的にしっかりと規範を身に付けていく過程があったようです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=206053

その中心は、心の育成=周りの人々との共生を実現する為のもの。

恐らく日本には、特に戦前に学べる宝を沢山持っていますので、これからも追求して行きましょう!

投稿者 かわい : 2009年5月8日 13:18

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