婚姻史シリーズ(20)~父系制への道を開いた税制度の歴史 |
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2009年03月02日
婚姻史シリーズ(21) 西洋観念の移入と共同体規範の解体
明治の開国によって、西洋文化の移入と市場化へと舵を切った国策によって、大衆の生活が激変していきます。それは都市部だけに留まらず、農村にまで一気に浸透していったようです。
このあたりの状況がコチラのブログに具体的に書かれています。少し長くなりますが、面白いので抜粋して紹介したいと思います。
いつもありがとうございます!
3.明治における性政策
明治期からだいぶかわってきた。各地で裸体禁止令。日本は暑いので裸で歩くということは割と多かった。裸体禁止令、盆踊り禁止令、同性愛禁止令、地方政府からの指示が多かった。
資料(3a)
「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番淫らかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人達は胸を隠そうとしないし、歩くたびに太股まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体などはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯に通っている。」(サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ「ペリー日本遠征随行記1910」)
資料(3b)
「このような風習がわれわれの目にとってどんなに奇異なものと思われても、ヨーロッパ人が到来する以前には、日本人は自分たちの風習に非難されるべき一面があるなどとは、明らかに誰一人疑っていなかった。……ヨーロッパ人が風呂屋に足を踏み入れたとき、彼らの方を見てくすくす笑ったため、そのときまで誰の目にも至極当然のこととして映っていたものを、ふさわしからぬものとしてしまったのである。」(エーメ・アンベール「幕末日本図絵」1870)」
資料(3c)
「目下のところ、文明開化をめざす政府は、こうした日本人の裸好きと執拗な闘争をくりひろげている。政府は年頃の娘たちが、街中をわれらが祖エヴァのような略式で歩きまわるのを禁止したし、公衆浴場では男湯と女湯をしっかり区切るように命じている。また制服の巡査をつかって、人力車に繋がれた人足たちを追いまわしている。」(レフ・イリイッチ・メーチニコフ「回想の明治維新」1883)
日本のことですよ。
男女混浴禁止令とか出ていますし。さてこういったかたちでヨーロッパの基準に合わせた。現在の軽犯罪法の元祖みたいなものですが、立ち小便をしてはいけないとか、闘犬はみっともないとか、とにかくヨーロッパ人から見てみっともないものを禁止していった。たこあげまで禁止した。若者宿を禁止した。行政の元に青年団とか婦人会とか出来てきた。中絶の禁止。医師の免許制度。産婆さんが村の中で中絶の手配をしていた。やってはいけないと。現在の医師免許制度の元祖。江戸時代には遊郭とかあったが、免許制度にした。1872。明治政府はちゃんとこういう側面に関しても介入する、病気がはやらないようにとか、公称遊郭からは税金を取っていた。
4.民放の成立と「家族」の変容
民放の成立が大きい。明治民放が1872年成立した。当然当時の明治政府からして、正式の文明国として認知してもらいたかった。正式の文明国として認知してもらって、不平等条約を改正してもらいたかったのです。だからばんばん制度を決めていった。家族の形も決まっていった。長男子単独相続にしたので、男性の地位が高まった。女性のみに姦通罪を適用した。これは貞操観念にかなり影響を及ぼした。女性にだけ姦通罪を適用したのはかなりそれまでの意識と違う。長男子段独相続にしても。母系相続が認められなくなった。末子相続、漁師の財産を譲るということは、年上の漁師がどんどん独立していって、最後に末子が親の使っていた船を相続した。非常に合理的。姉家督、息子が有能とは限らないので、もっとも有能な男を長女と結婚させて、自動的にもっとも有能な跡継ぎを作った。こういう家族形態が破壊された。純潔にやっていたわけでもないので。
過去の文化を再編成されて、新しく伝統ができたというわけですけれども、武士のカルチャー。女性にだけ姦通罪があるというのも、もっとも武士のカルチャーだなと思うわけです。法律的に決定してきた。農民でも長男子単独相続はやっていました(資料4)十万両ある家が均分相続性にしてしまうと、問題。一人が十万両持っているほうが産業が発達するということです。さすがに明治政府の中枢ともなると単なる文化論でものを決めていないなと思うところです。少なくとも政策がからみあって出来た文化である。
5.性意識の変化と「恋愛」の発生
恋愛というものが、西洋的な文化として出来てくる。文明開化の品であった。個人の自由意志で人格的な結合というのはそれまではありませんでした。処女とか貞操とかいう個人のアイデンティティーが変化してきました。我々は個人のアイデンティティーであると考えがちですが、そういうものではありません。処女というのは近代化以降に出来た言葉でした。漢字熟語としては存在していたが、未婚婦人のことを指していた。実家に居る女だから処女と書いた。未婚婦人が子供生んじゃったらどうするか。
明治以降意味が変化してきた。それまではセックスしてない女のことをなんて言ったかというと、そんなことを考える必要もなかった。
貞操というものも、個人的に純潔を守るということよりも、同盟関係を守るということの方の意味合いが大きかった。織田家とか徳川家とか、節操の問題でした。そういう意味での貞操。
セックスをしたかしないかというのは、人格の要素になってきたわけです。知識人が一番最初。文学方面からこういうことを行ってきました。
近代化するようになってきてから処女の純潔を尊ぶようになってきた。当然愛情というの言葉もこなれないわけですね。これは非常に新しいことだったんですよ。ニューモードですから。セックスをやったかやらないかということと、個人の人格を結びつけたのは近代化以降で、そういう発想形態はしていなかった。江戸時代が精神性が無かったというわけではなくて、発想形態がまったく違った。同性愛を異常とか変態とかみなすようになったのは、江戸時代末期から。変態という言葉が現在の意味になったのもその時期からである。
いかがでしょうか?
もともと大衆にとって「性」はオープンであったことがよくわかります。もっと言えば農村の共同体の基礎であったともいえるでしょう。人々の性に対する意識(元々意識していなかったのでしょうが)の変化が、
共同体規範の崩壊→バラバラな個へ→警戒心の高まり⇒近代思想へ
を物語っていると思います。
投稿者 hiroaki : 2009年03月02日 TweetList
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