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2008年10月04日

核家族における家庭内での役割

カネキチくんに続いて、ネットサロンから

前回のサロンは、多岐に亘って議論が広がった。
その中でも役割、期待⇔応合=共認充足(参照:共認機能)は、一貫して触れられていたテーマであり、心が充たされている状態=共認充足が得られる状態(条件)とは?

そこには役割があり、そして、互いに期待期待とは一方通行ではない。ここポイント)が込められている。

では、現代の普通と思われている家庭=核家族の中には、役割そして、期待はあるのだろうか?

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最近(でもないか?)記事を書く時や、関連する内容を探索する時に、当ブログの検索機能を使うことが多くなった。それだけ充実してきていると感じられる。一方でそろそろ、インデックス化、構造化に期待。

“期待”で検索してみると、ズラッと記事がUPされる。それだけ“期待”の重要性を示している。

その中から
引っ掛かった、一文を
家族ってなに?

核家族に期待されている唯一の役割は、消費とその為の子育てだけ。。。

唯一の役割が消費??????
その為の子育て???????

かつての村落共同体のような、生産と消費が一体ではなく、生産の場がすっぽり抜け落ちている。
明治期から始まる工業化・市場化は生産と消費の分離を促進させ、都市化はそれに拍車をかける。

上記の一文は、実に、現在の家庭を端的に表現している
逆に、それ以外の役割や期待があるのだろうか?
あったとしても、それは無理やり作り出した役割であり、期待である。
真っ当な期待でない(一方通行にならざるを得ない)から
何を期待していいいのか解からない→無期待。
                      →過期待。
へと繋がっていく要因にもなり得る。
生産、そして、社会から切り離された現在の密室家庭においては、消費→要求という姿勢・意識が前提となり、期待や役割が生み出されない。

また、
老人、高齢者の役割と言ったら、核家族という時点で、役割以前の話、すなわち、すでに無き存在とされている。

一人暮らしであったり、老人施設に放り込まれたり・・・・・
年金と言うお金を与え、役割を奪い去っている。一方で国は、福祉と言う名の元に借金(国債)を膨らませるだけである。

800兆円とも1000兆円とも言われている国債。
それ以外に、さらに潜在的な支払い予定の年金=借金が400兆円とも500兆円とも言われている。
どちらにとってもマイナスであるのに、まかり通っている。
どうする?なんで?と見直す様相がまるでない。

経済破局が危ぶまれているが、例え破局したとしても、吹き飛ぶのは金融市場という名の実態経済からかけ離れた虚構経済であり、実体経済は左程影響がない。
それよりも、虚構経済の影に隠れて、ジャブジャブ使っていた国債、福祉への支出を抜本的に見直していかないと、実体経済さえ危ぶまれる。
そういう意味でも、今まで以上に、お金の使われ方が問われてくるだろう。
何にお金を使うべきか?それは本当に必要なのか?

「必要か否か」の判断の元、有り余っている“もの”ではなく、活力=充足←期待が込められた役割を生み出すシステムや事業に使われるべきであろう。

投稿者 sodan : 2008年10月04日 List   

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