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2008年10月05日

学校ってどうなってるの?76 個人主義の拡大に伴う同化対象の喪失

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学校ってどうなってるの?69 学力低下どうする?では、「個人主義が同化対象を喪失させた」と展開していますが、これはどういうことなのでしょうか?

日本の「個人主義」は明治時代にまでさかのぼります。かの夏目漱石が英国留学で得た個人主義を紹介する「私の個人主義」という講演があります。
 
今回は個人主義とは何か?について探ってみたいと思います。

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個人主義に関するるいネットの投稿を紹介します。

我思う、故に我あり

という言葉は個人主義思想の礎として、あまりにも有名な言葉である。
(略)
しかしこの劇薬の問題点は全ての現実の存在を「懐疑する」≒「捨象」した果てに、全ての思考の立脚点を、思惟する自己の観念に置いた点である。
(略)
その観念を現実から180度「転倒」させ、思惟=現実を捨象した自己の頭の中に立脚点をおいたこと。これは構造的にはかつての神の位置に個人を措定し直したに過ぎない事を意味する。これこそが個人主義哲学の最大のペテンだと私は考える。

 
個人主義と市場拡大に関して 

(略)利己的欲求と個人主義と市場拡大は一体の関係にあると考える。
 それは
①封建体制が弱体化するにつれて、私益拡大欲求の可能性の対象が市場(交易)に向かう、それにつれて旧体制(の桎梏)からの「自由」の気運が、市場の先駆者たる商業者の中に高まる。
②商業活動が拡大するにつれて市場が拡大し、私益追求の可能性が拡大していく。
③市場の拡大に伴い、村落共同体は徐々に解体されてゆき、人々は都市において自由な=バラバラの個人として生きざるを得なくなる。
 これが個人主義浸透の物質的基盤となる。(また同時に貨幣の浸透に伴い、金があれば一人でも生きていけると言う基盤ができる、これも個人主義が浸透する物質的基盤となっていく)
④これら個人による私益追求の闘い(市場競争)は必然的に勝者と敗者を生み出す。
(富の集中的蓄積と中小工業者の没落、無産階級の拡大)
⑤集団も富の蓄積も無いバラバラの個人は、生存権を求めて資本家や国家に(賃金や労働条件などの)要求闘争を開始する。なおそれを要求する際の価値観念として「人権」が用いられる。
⑥幾多の変遷を経て、最低賃金や労働条件を始めとする労働者の諸権利が確立する。
それは国家を媒介とした資本と労働の合意形成であった。

以上(極めて大雑把に見れば)概ねこのような過程を辿ったと見ることができるであろう。

まとめると、封建体制から西洋型市場第一主義へ転換した人々は、個人による私益追求の戦いに邁進していく。共同体に対する、私益追求の個人の観念的な自己正当化を助けたのが「個人主義」なのです。
 
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=124343
” target=”_blank”>あらゆる圧力を排除する個人主義

近年学校現場では我々の世代ではあまり聞かなかった言葉が教育されているようだ。
「相手の気持ちを考えなさい」「自分がされて嫌なことは相手にしないように」。一見もっともらしい言葉である。
しかしよく考えれば、これらの言葉は実に危険であることに気が付いた。一方で相手への配慮を呼びかけると同時に、何であれ相手に不快を与えること=相手に踏み込むことをや圧力をかける事にブレーキをかける言葉でもあるからだ。
(略)
取り分け’90年以降学校現場では観念支配が強まっていく。その中核観念が個人主義である。その中でもとりわけ個人主義の派生物たる人権観念は「個人の幸福」を最高価値とする観念である。そうであるが故に「個人に不快」なものをとことん排除していく。
(略)
その結果、本来まともな人間に育てていく任務を持つはずの学校が、旧観念支配によって、逆に無圧力空間を自ら創り出し、「自己中」の生産に荷担する場と成り果てつつあるのだ。

 
個人主義は、現在の教育現場では自己中を生産するに至っています。

こうした個人主義が日本の歴史上何時から始まったのかといえば、それは明治時代であろうと思います。文明開花=西欧化を政策として展開した明治の日本は、市場化、都市化を西欧に学びながらその思想背景である個人主義も積極的に輸入して行ったのです。
 
文明開化Wikipedia  
 
文明開化とは、明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことをさす。文明開化は、(略)福澤諭吉が『文明論之概略』明治8年(1875年)の中で、civilizationの訳語として使ったのが始まりである。この中では単純に西洋の文化・風俗を模倣したものから、或いはそれら文化や風俗を手本としながら日本の既存文化との融合を図ったもの、更には既存文化を西洋風にアレンジしたものなど多岐に渡り、過渡期的には熱病の如き流行となって様々な社会階層に受け入れられていった。
(略)
明治新政府が推進した殖産興業や富国強兵・脱亜入欧などの一連の政策の推進や西洋建築(→西洋館・擬洋風建築)、散髪、洋装、洋食などの奨励がみられる。ただこういった西洋化は都市部や一部の知識人に限られた西洋文明の摂取でもあったとも指摘されており、地方町村部では場所により昭和に入る頃まで明かりといえば菜種油で行灯を灯し、郵便や電信など西洋化の恩恵は中々届かず、また長らく江戸後期の伝統や風習が続くなど、生活の変化は遥かに緩やかなものであった。また、地方では新政府の方針に従い県庁主導で従来の生活文化や民俗風習の排除が行われ、文明開化政策の影響で縮小や途絶した民俗風習も多い。
 
なお急速な西洋化の一端には、西洋列強国が当時盛んに植民地経営で、莫大な富をアジア諸国から吸い上げていたことに対する危機感も見出される。

共同体の崩壊・バラバラの個人→西欧化・市場化→貧困の消滅・同化対象喪失

の思想的な基盤が、「個人主義」で、市場化の為の個人主義が、

個人主義→自分が原点→同化対象喪失 を引起していたのですね。
 
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投稿者 saito : 2008年10月05日 List   

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