魔の2歳児(イヤイヤ期)とママの悩みの根本解決法 |
メイン
2008年08月15日
学校ってどうなってるの?65~ゆとり教育は市場原理発?
これは1950年(昭和25年)頃の名古屋市立栄小学校での授業風景です。小学校2年生がそろばんを練習しています。戦前もそうですが、戦後直後の子どもは、習字も含めてきちんと基礎的な勉強をさせられていました。【(関 行宏のブログ「ふぐり日記(2007)より写真を借りました】
Ⅰ,そもそもゆとり教育が生まれた背景は?
ゆとり教育というと、2002年の指導要領改定だけだと思っている人が多いが一番最初にゆとり教育が提唱されたのは、1977年の指導要領改定である。このころ、第二次ベビーブームが始まっていて、生徒数がとても多く、中学校で、15クラスぐらいあるのが普通で、教室がなくて、プレハブ校舎で授業をしたりしていた。
そして、この時期、実は、もっとも大きな歴史的な流れが起こった。スプートニク・ショックである。
スプートニク・ショック(Sputnik crisis、スプートニク危機)とは、1957年10月4日のソビエト連邦による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功の報によりアメリカ合衆国の政府や社会に走った衝撃や危機感である。スプートニク計画以前、アメリカは自国を宇宙開発のリーダーであり、それゆえミサイル開発のリーダーでもあると信じていた。しかしスプートニク1号成功の突然のニュースと、それに続くアメリカの人工衛星計画「ヴァンガード計画」の失敗は、アメリカの自信を覆し全米をパニックに陥れた。
この時期、ソ連が戦略弾道ミサイル搭載潜水艦をアメリカに先駆けて配備するなど、軍事技術でアメリカが圧倒される出来事が相次いでいた。スプートニク・ショックを受けて、ソ連の脅威とアメリカの劣勢を覆すため宇宙開発競争が始まり、科学教育や研究の重要性が再認識されて大きな予算と努力が割かれるなど、危機感の中でアメリカの軍事・科学・教育が大きく再編された。スプートニク・ショックはアポロ計画、および1969年の月面着陸成功によって収束したが、冷戦のターニングポイントとなった出来事であった。
ゆとり教育の活力は市場原理発ではなかったか?
それを検証してみたいと思います
面白かったら押してみてください
続く
伊雲の塾講日記 vol.18 ゆとり教育の歴史的背景(1)より引用要約
要は、アメリカがソ連(当時)に宇宙開発競争に負けたために、新世代の技術者を養成するため、様々な教育計画が開始された。この中で今日もっとも記憶されている、また注目すべきものは、初等教育における算数教育を根本から改革し集合論や十進法以外の位取りなど抽象的な数学的構造を早い年齢から導入してアメリカ人の数学能力向上を目指した「新しい数学(en:New math)」というカリキュラムであろう。 この運動を、「教育の現代化」あるいは「現代化教育運動」という。要は、「小中学校のカリキュラムを、ソ連に勝てるものにした」のである。今まで、学校で習っていなかった「集合や十進法以外の位取り」を小中学生に教えることにしたのである。
そして、このアメリカの教育の流れは日本にも入ってきた。時代は、高度経済成長の時代である。「ソ連に負けない」が「アメリカの思想」であるとすれば、「日本を世界一に。」それが、この現代化教育運動を日本にもたらした。しかし、時期が悪かった。これが導入されたのが、昭和43年(1968年)改定からである。指導要領は、数年の移行期間を得て完全に実施される。なので、この「現代化教育運動」と「第二次ベビーブーム」が重なったのである。そうするとどうなるか。授業は難しくなる。しかし、生徒数が増え、面倒を見ることができない。そもそも教室がない。そのなかで、構造的に生まれてきたものが「おちこぼれ」である。その状況を救うために、生まれたのが「ゆとり教育」なのである。
「学習内容を減らし、ゆとりのある学習を」というのは、実は、「スプートニク・ショックによる現代教育運動」と「第二次ベビーブームによる学習環境の悪化」を原因としてうまれてきた「おちこぼれ」を救済するためにうまれた思想であったのである。これが、ゆとり教育の原点である。
ゆとり教育はその後以下のような2段階で削減されてゆく事になる。
1段階目が1995年の指導要領改定、「第一回教科書削減」である。詰め込むこと自身が悪いこととなった。
2段階目は2002年の「週休二日の完全実施」に伴う学習内容削減である。
さすがに政府内でも「必要な知識を教えずに何がゆとりか」「これでは理数系の人間は育たなくなる」という声が上がり、
同年1月17日、遠山敦子・文部科学相が、宿題や補習を推奨する「学びのすすめ」と題するアピールを発表した。
ウィキペディアにゆとり年表があります
・1972年 日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに、「学校5日制」を提起。
・1977年(昭和52年)学習指導要領の全部改正 学習内容、授業時数の削減。「ゆとりと充実を」「ゆとりと潤いを」がスローガン。 教科指導を行わない「ゆとりの時間」を開始。
・1989年(平成元年)学習指導要領の全部改正 (1992年度〔平成4年度〕から実施)学習内容、授業時数の削減。
小学校の第1学年・第2学年の理科、社会を廃止して、教科生活を新設。
・1992年(平成4年)9月から第2土曜日が休業日に変更。
・1995年(平成7年)4月からはこれに加えて第4土曜日も休業。 第1段階
・1996年 (平成8年)文部省・中教審委員にて「ゆとり」を重視した学習指導要領を導入
・1999年(平成11年)学習指導要領の全部改正 〔平成14年度〕から実施)・・・ゆとり教育の実質的な開始
学習内容、授業時数の削減。完全学校週5日制の実施。「総合的な学習の時間」の新設。「絶対評価」の導入。
・2002年週休2日制の完全実施。 第2段階
・2004年 OECD生徒の学習到達度調査(PISA2003, TIMSS2003)の結果が発表され、日本の点数低下が問題となる。
・2005年 中山成彬文部科学大臣、学習指導要領の見直しを中央教育審議会に要請。次年度より指導要領外の学習内容が「発展的内容」として教科書に戻る。
・2007年安倍晋三首相のもと「教育再生」と称して、ゆとり教育の見直しが着手されはじめた。
Ⅱ、ゆとり教育とは何か(ゆとり教育とはエリート教育なのか)?
「ゆとり教育」」晴耕雨読さんのサイトより
三浦朱門氏はゆとり教育について、斎藤貴男氏の取材に対し、こう答えています。
「学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながら教課審(引用者注:教育課程審議会)をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本は どうにもならんということです。
つまり、できんものはできんままで結構。
戦後五十年、落ちこぼれの底辺をあげることにばかり注いできた労力を、 できるものを限りなく伸ばすことに振り向ける。
百人に一人でいい、やがて 彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な 精神だけを養っておいてもらえばいいんです。(中略)
国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも 出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。
それが “ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、 回りくどく言っただけの話だ」
斎藤氏の著書から続きです。
――それは三浦先生個人のお考えですか。それとも教課審としてのコンセンサス だったのですか?
「いくら会長でも、私だけの考えで審議会は回りませんよ。メンバーの意見は みんな同じでした。経済同友会の小林陽太郎代表幹事も、東北大学の西澤潤一 名誉教授も……。教課審では江崎玲於奈さんのいうような遺伝子診断の話は 出なかったが、当然、そういうことになっていくでしょうね」 (前掲書41頁) また、江崎氏の発言はこうです。
「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に 遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」(前掲書12頁)
斎藤氏が『東奥日報』 の取材に応えて述べた感想、 支配層には、小さくなったパイをみんなで分け合う発想はない。自分たちの取り分を減らさず、恵まれない層の分をかっさらう-私の目にはそう映る。象徴的なのが「ゆとり教育」だ。教育課程審議会長だった三浦朱門氏の発言を忘れない。「新学習要領で授業内容は三割減る。学力低下を招かないか」と尋ねた私に三浦氏は言った。
「戦後はできないやつのために手間と暇をかけすぎた。落ちこぼれにかけすぎた手間をこれからは有能なエリート候補に振り向ける。彼らが日本を引っ張ってくれる。無才、非才にはただ実直な精神だけを養ってもらえばいいんだ」
「エリート教育がゆとり教育の目的。それを言うと抵抗が大きいので、ゆとり教育とまわりくどく言っただけだ」「私は衝撃を受けた。
エリートにならないやつに勉強などされても社会の無駄だと、 彼は言っている。ゆとりはゴマカシだった。
根底には経済界の要請がある。どうしたら日本経済を活性化できるか、企業が 活力を得る手っ取り早い方法は何か、というのが発想の原点だ。
ゆとり教育とは教育を弱肉強食という市場原理の活力にゆだねるということではないか。
しかしすでに市場は1970年をピークとして衰退の過程に入り、その市場の活力そのものが衰退しつつあった。
人々の私権衰弱とともにそれに委ねてきた学ぶ力も衰弱してきたのではないか。