| メイン |

2008年08月06日

大正期、「家庭」概念が普及

%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E9%9B%91%E8%AA%8C.jpg %E5%A4%A7%E6%AD%A3%E9%9B%91%E8%AA%8C%EF%BC%92.jpg

明治期から大正期へと移行する中で、明治後期あたりから女性たちの意識や家庭の様子が目に見えて変わり始めたようです。

かわいさんの記事にあるように、大正期になると女性たちの性的な価値が高まり、恋愛意識や権利意識も高まりはじめたようです。そして、家庭の状況も変化し始めました。

1920年(大正9年)に第1回国勢調査が行われ、その調査結果によると核家族世帯が54%となっています。ちょっと意外な数字ですが、今回は大正期に広がった核家族について調べてみました。

続きはポチットしてからお願いします。
             
 

 にほんブログ村 子育てブログへ

当時の社会状況は、明治維新以降の人口急増の過程の中にありました。
(以下、ウィキペディア「人口爆発」より抜粋引用)

●明治維新以降、間引きは厳しく罰せられて4-7人兄弟の家族が普通になり、公衆衛生の発達や近代医療の導入により新生児・児童の生存率が向上したこともあって、人口は昭和初期には3倍にまで膨れ上がり、人口過剰は重大な社会問題となっていた。

●特に、都市人口の増大は急激だった。様々な打開案が示されたが、海外への移民や拡張政策もその一環であった。この頃、この人口増加が続いたままでは20世紀末に人口は2億5千万になると予想されていた。

●また、大正3年に勃発した第一次大戦によって日本経済は一気に拡大し、大戦が終わった大正7年には農業国から工業国へと大きく変貌していました。
●大正3年の産業別生産額は、農業45%、水産業5%、鉱業5%、工業45%だったものが、大正7年には工業だけで57%を占めるようになり、農業は35%まで下落しています。(ただし、全産業で生産額は大きく拡大しています)
●なお、明治期から1950年頃までの農業生産人口と農家数は、第二次大戦直後の一時的急増を除きほぼ一定していました。(約1,400万人、550万戸)

以上のような、人口急増・産業構造転換の中で、農村を出て都市に集積した人口が核家族を形成することにならざるを得ない事情がありました。

冒頭で紹介した国勢調査の結果とその解説は以下のようになっています。(少子化社会白書H18より引用)

●核家族世帯は1920(大正9)年の第1回国勢調査時点でも、全世帯の半数を超えていた。(54%)
●当時、子どもは5人以上生まれていても結婚すると別世帯を構えるため、親と同居できるのは2組の子ども夫婦だけで残りは核家族世帯にならざるを得ない。
●親の寿命も現在よりは短いため親と同居できる期間も短かったものと考えられる。
●夫婦と子に加えて夫婦の親等が同居する拡大家族世帯の割合が、1920年当時で全世帯の3割となっていることも、こうした見方を裏付ける。

一方、女性たちの権利上昇を図るものとして「主婦」という言葉が造られたのは大正の初期でしたが、「家庭」という言葉が表舞台に登場したのはそれよりも前、明治30年代頃でした。

(以下、「住まいと家庭思想」より抜粋・引用)

●明治維新以降、近代国民国家の形成を目指して、村落共同体の解体と「家」制度・家父長制の普及が進められましたが、日清・日露戦争を経る中で、国家から押し付けられる「家」に対抗する概念として「家庭」という言葉がメディアに登場し始めたのが明治20年代、一般に普及しはじめたのが日露戦争後の明治30年代半ば頃でした。

●日露戦争以後、とりわけ第一次大戦後には、社会の近代化と産業の飛躍的発展によって、官吏や職業軍人や教員や会社員など、頭脳労働という労働形態、俸給という所得形態、資本家と賃労働者の中間という社会構成上の位置と生活水準の中位性を特徴とする新中間層が大量に生みだされた。

●こうした都市の新中間層の核家族率はかなり高い。大正9年の第1回国勢調査を分析した戸田貞三によれば、2世代以下で構成された家族は六大都市の公務自由業家族の場合84・8%に達している。

●明治30年代半ば頃には女子教育の浸透によって、活字を読める女性が増加し、新聞の家庭小説や女性雑誌の読者層となった。明治30年代半ばから大正期を通じての女性ジャーナリズムの隆盛はまさにこのような社会を背景に、新しく台頭した中間層を中心とする「生活」への関心によって支えられた。

明治後期以降に広がり始めた都市の中間層は家庭外に職場を持ち、家庭と生産の場が分断された家族でした。
そして、天皇を中心に「家」を最小単位とした中央集権国家を形成しようとした「家」制度は、「家庭」概念の登場によって変質してゆきました。

「家庭」概念がひろがり始めた当時の社会の意識状況として以下のような特徴が挙げられます。

●国民国家の形成により人間の管理権が「共同体、親族」から「国家」へと移行
●産業化の進展により生活と生産の領域が分離し、家庭は「労働再生産のための慰安と愛情の場に」
●拝西洋・廃東洋…夫婦親子間の関係に関する規範として「離婚は儒教的悪習」とされた
●産業化への対応…日本の発展のためには伝統的直系家族を改革すべし
●「家」に優先する国家…家の利害よりも国家の利害が優先される
●「家庭」と国家の連続…「家庭」型家族は国家発展の礎となるもの(家族国家観イデオロギーのはじまり)

以上のような社会背景の中で、「家」制度の下にあった家族が「家庭」へと変質していった中身のポイントとして以下のような点が挙げられるようです。

●「女性も独立・社会参加すべし」から「女性は主婦たるべし」へ
●性別役割分業の固定化…「主婦」任務の美化、分業に基づくパートナーシップ賛美
●封建的女性像の賛美…良妻賢母的女性が理想
●女性の母役割の強調…よき母親であることが女性一般の性役割

以上のような変質の中で、家庭が「聖域」へと向かい始める芽が生まれているようです。
なお、このような変質を経ながら、やがて昭和の戦時体制に向かう中で、「家庭」が国家ナショナリズムを形成する土台になってゆきました。

by わっと

投稿者 wyama : 2008年08月06日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2008/08/609.html/trackback

コメント

>産業化の進展により生活と生産の領域が分離し、家庭は「労働再生産のための慰安と愛情の場に」

それまでは、やむを得ず核家族という家族形態をとっていたとしても、生産と消費の場は一体だった。

それが分離したというのは、家族であることの意味合いが大きく変わっていくきっかけになったと考えられますね。

投稿者 フタテンアカ : 2008年8月9日 20:57

コメントありがとうございます。

仕事の場が切り離され、家庭は、「慰安と愛情」の場に、さらにその先に「消費だけ」の場になっていったことが「聖域」に向かうきっかけだと言えると思います。

また、個々の「家族」が共同体から切り離された存在になっていったことが、さらに大きな社会的背景として挙げられると思います。

投稿者 わっと : 2008年8月11日 14:28

コメントしてください

*