明治に定められた教育勅語とその背景 |
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2008年06月22日
明治初期、教育制度改革と庶民生活の実態
江戸から明治にかけて、日本は西欧列強に追い付け・追い越せとばかりに一斉に国を挙げての文明開化 😯 へと舵を切りました。
が、文明開化っていきなり言われても、当時の人々にそれが輝きを持つ概念であったかどうかは、甚だ疑問 🙄 でもあります。
江戸から明治にかけて、家制度⇒家族制度、という形で法整備が進められて来た訳ですが、単純に法律が変ったから従え、と言われて国民達は素直に前に習え、となった訳でも無さそう。
という事で、今回は国家は国民達をどのように強制圧力下へと従わせていったのか?という事を教育の観点から探ってみたいと思います。
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1868年 明治元年
明治04年 文部省設置:イギリス、ドイツ、アメリカ、オランダ等の教育法導入の検討開始
明治05年 「学制」制定
明治08年 「学齢」制定:満6歳から14歳の8年間を学齢とする
明治12~40年までの間に7回もの小学校制度改正
明治33年 義務教育成立:原則無償となる
明治44年 就学率98%!
実は、発展途上国がたったの40年で就学率90%を達成した事例は、未だに日本を除いて存在しないらしい。
と、これだけを見ると日本という国はいかにも勤勉でみんなが望んで勉強に取り組んでいったかのように見えます。
ところが、実態はこの明治の40年間で、大きく市場開放の煽りを受け、強引に共同体が解体されていった歴史が見られます。
明治5年「学制」制定時、全国に「八大学区」×「32中学区」ということで中学校256校、小学校53,760校設立が目標として掲げられます。ところが、これは全くの机上の空論に過ぎず、ピークは昭和32年で26,988校、H15年では23,633校(明治8年の時点より少ない)が実情であり、一度も実現されたことの無い目標値であったようです。
一説では、江戸期の寺子屋は75,000位あったとも言われており、実は明治になって学制を頒布したらいっぺんに小学校が12,000に減ったというのが実態のようです。学制は、立身出世主義の元、受益者負担の法則により、「出世するためには自分でお金を出して学校に行く」という事を強制的に法制化した為、それまで自主的に寺子屋(主に寄付等により成立しており、決められた授業料などは当時無かった)などに通っていた子ども達の中でも、元々裕福であった一部の層(明治6年の内訳で12,000校 就学率:男子39.9% 女子15.1% 平均28.1%)だけが通えるものへと変ってしまったようです。
しかし、これでは当初の目標が達成できない、とばかりに国は各地方役人へ強烈な圧力を働かせます。明治33年の授業料免除はその政策の一環。それでも、家(村)の仕事の方が重要とされていた地域では簡単には就学率は上がらず、必死になった役人達は、子ども達にバッジや表札を配布して差別化を計る、学校へ通わない子は村八分等と一部脅迫めいた手段まで使って、なんとか就学率向上を目指したとか。
結果的に明治44年で就学率98%を達成した、というのも役人の誤魔化しがあり、どうしても学校へ通えない子は、役所に免除願いを出せば認める、という形で就学率を割り出す際の分母を強制的に減らした、という裏話もあったとか。
参考サイト
明治時代の小学校
講 演: 「明治初期の子どもと学校」
という事で、明治時代の教育制度整備と、それによる子ども達の意識変化という観点で改めて上記の流れを俯瞰すると、次の事が見えてきます。
1.裕福な家庭は地位向上を目指して学問の道へ⇒後の官僚や軍体の上官などへの布石か?
2.村の子ども達は村の生産力であり、義務教育よりも村仕事の方がまだまだ優先されていた
3.度重なる強制例の発動により、子ども達の差別化が進行。村の規範(共認域)が次第に崩されていく
当時の日本政府の政策の背後には、「西欧列強に並べ!」というスローガンを推進させた国際金融資本の存在が確認されています。
大きくは、市場拡大政策の一環として、村=共同生産体を解体し、バラバラの個人、即ち何をするにも金の必要な社会(生産者と消費者によって構成される社会)の基盤作りが、この頃から推し進められており、明治初期にはまだまだその流れに抗う姿が垣間見られていた、という辺りが、今後の社会に対するヒントともなりそうな気がしています。
まだまだ追求は続きます!かわいでした。
投稿者 kawait : 2008年06月22日 TweetList
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コメント
投稿者 チヨマラエィ
チヨマラエィ さんコメントありがとうございます。
するどいご指摘ですね。
どちらかと言うと、家庭に無理矢理閉じ込めて行った、と解釈した方がすっきりしそうな気もします。
しかし実際には子どもに教養を躾ける能力は家庭ごとバラバラにしかならず、家庭は学校(国)へと押し付け返した。
その成れの果てが、現在のモンスターペアレンツ、といった所でしょうか。
今後、追求を深めて見たいと思います!
投稿者 かわい
江戸時代には子どもの養育の役割が家庭にはなかったのに対して、明治になってその役割・責任を法的に家庭の中に収斂させたということも注目しておきたいところだと思います。