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2008年04月12日
共同保育は上手く行ってる?
今回は、『共同保育』にスポットを当てて探索してみました。
子育ての過程において、どこにも預けないで小学校へ就学という家庭は少なく、保育園や幼稚園、そして託児所など、どこかしら施設に預けられていると思います。
保育園や幼稚園、特に託児所では、預ける側の親と、預かる側の施設といった分断された構造にあり、いつの間にかそれが当たり前になっていて、子育ては、みんなの課題という視点が抜け落ちてしまっています。
モンスターペアレントを始めとしたクレイマーたちは、どうしよう?どうしていく?といった自ら主体的に解決していくのではなく、消費者のごとく、批判・要求するだけです。例え、どうする?と言う答えを出したとしても、殆どが頭に“自分”がついていて、“自分の子供”にとってどうか?とばかり考え、周りのことは眼中に無い事が多い。しかも、この“自分の子供”というのも怪しく、突き詰めれば一番は親である“自分(の評価や要求)”のことしか考えていない。
対して、共同保育所では、
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例えば、
たつのこ共同保育所のホームページ
“たつのこの生い立ち”設立趣意書によると、
単に批判するだけでなく、自分たちが主人公になって、自分たちの力で人々や周囲に働きかけ、つくりかえていきたいという強い欲求になりました。そうした思いを学習会でみんなで出し合いながら、保育論の学習もし、共通の理解をだんだん深め、保育所づくりに踏みきりました。
私たちは預ける側と預かる側の分業、対立の止揚に努力し、全ての会員が保育に参加する体制をめざします。
とあるように、
預ける側、預かる側という垣根をとっぱらい“子育て”という共通課題をお母様方(父親も一部含む)と保育士と共に担う共同(協働)保育になっている。
さらには、社会から分断された密室家庭という殻から一歩踏み出し、職業を持ちながらや、地域に働きかけたりと、社会と繋がっている。
という点に大きな違いがありそうです。
実態は、まだまだ調査の必要が有りそうですが、他のサイトを探索しても、概ね+側の評価をしている内容が多く、問題や批判の声も少ない。
有るとすれば、更新があまりされていないサイトや、閉鎖している共同保育所がいくつか見受けられたこと。そこには、少子化や、子育てには実質問題としてお金がかかるという経営上の問題があるのかも知れない。
改めて、
行政の指導や、近代思想の影響による理念や観念ばかりが先行し頭でっかちになっている学校(保育園、幼稚園は?)なども見受けられるが、
共同保育所には、“子育て”を自ら⇒みんなの課題として主体的に活動されている分、隔たりが少ないように思えます。
「共同保育」所は、
子育て課題を主体的に捉えている点、社会と繋がっている点で大きく評価できそうです。
今後、さらにどうしていけばいいのか?
“子育てって何?”という根本課題を今の社会状況に照らし合わせて取り組む必要がありそうです。
根本問題に入る前に、一歩手前の、“子育ての有り方”のヒントになるような記事を見つけたので紹介したいと思います。
(紹介したい所は、たくさんあるのですが、その中で)少し長くなりますが
こばと共同保育所の父母の声から
昔、私たち親世代が子どもだったころは、まだ地域の子ども集団が残っていて、その年齢構成はさまざまでした。規模もせいぜい十数人程度です(私は子どもの自然な集団はこのくらいが適正だと思っています)。子どもたちは自律的に行動し、子ども同士の中で生きる術を学んでいました。今はすっかりなくなり、子どもが生活する家族以外の集団は、学校(幼稚園)・保育所といったところで、同年齢の子どもが30人も40人もいるという、人間を「管理」する上限としか思えない不自然な集団しかありません(縦割り保育を実践しているところもあるようですが、あくまでもイレギュラーな保育体制という認識であることに変わりなく、非日常性を感じます)。
家庭に兄弟が少なくなった今、かつて生きていた子ども集団を取り戻すことはできないのでしょうか。初めは、こんな環境で我が子の年齢に応じた発達が保証されるかどうか、正直なところ疑心暗鬼でしたが、先生方の工夫でその心配はなく、むしろ年上の子から教わることのメリットが大きいことを感じています。
こばとは公立の保育園と異なり、年齢の違う小さいこども達と一緒に生活し、小さい子はいろいろなことができるようになってきたお兄ちゃん・お姉ちゃんに憧れ、また大きな子は小さな子をやさしくいたわりながら子供社会の中で、成長させてくれる本当にいい環境でした。
早穂は、年長にとても憧れていました。独楽・側転・縄跳び…これらはどんなにやりたくても、年長にしかやらせないものだからです。きっとこの気持ちが、年長になってからの飛躍につながるのでしょう。年長の課題を次々にこなしていく早穂。絵に伸びが見られない時、保育者の方々は、より良い刺激が得られ描きたいという気持ちが増すように、他園との交流や遊び等、機会を多く持つ努力をしてくれました。卒園式で持てる力を出し切って、側転や縄跳びに挑む早穂の姿を見て、何時の間にこんなに成長したのかと驚きを覚えました。
息子の最後の1年間は、年長児1人という状況で、親としては正直心配した時期もありました。でも、この1年で彼は、年下の子をいたわりリードするお兄ちゃんとして、たのもしく心優しい少年に成長しました。
「ゆっくり、じっくり、ていねいに」- 発芽がそれぞれの種によって差があるように、こばとでは、機の熟すのを待ってくれます。この「待つ」という一見無駄のようなことが、保育の中でどれだけ大切かということを、3人の子育てを通して知りました。「待つ」間、子どもは何もしていないわけではないのです。見えないところで蓄めているのです。
保育園や幼稚園といった施設は、概ね年齢別又は2学年ごとに分けることが多い。それは、管理する側の視点(都合)であって、同化対象(あのような人になりなりたい、あの人のような役割を担いたい、真似をしたいと思える対象)を奪っているようです。
本来“社会”は一つの繋がったものであるものなのに、“分断化”はあらゆる面で見受けられ、
冒頭で挙げた、預ける側と預かる側しかり、生殖(子育て)と生産(労働)しかり、学年別の子育て、そして社会から分断された密室家庭。それらが、現状の閉塞状況を生み出している一つの要因になっているのではないでしょうか?
投稿者 sodan : 2008年04月12日 TweetList
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