不登校→フリースクールの問題点 |
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2008年02月01日
社会適応の条件とは?(育つって何?)
さて、不登校→フリースクール→出口の無い無圧力空間。。。
といった構造の限界が前項にて提示されましたが、そもそもの人類、あるいは生物にとっての「生きる」とは一体何を意味するのか?
みんなで探索した事例の中には、全寮制学校により外圧形成+適応力の育成で成果を上げている事例も見られました。
そこで、改めて「適応」という視点で探ってみました。
るいネットにて「適応」をキーワードに投稿を探すと、沢山の答えが見えてきます。
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生きるってことは常に変化していく外圧を克服、適応していくことではなでしょうか。逆にいえば外圧がない(環境の変化がない、期待がない)という状態はなんのために生きているかわからない状態・生きることに充足を感じられない状態であり、それを捉えにくい状況になってきているからこそ「イミの探索」に向かうのかもしれませんね。
「なんで」は、ひたすら外識を用いて外界の情報(現実圧力)を捉えようとする思考、「どうする」は、外識で捉えた情報を内識で捉えた欠乏と繋げ内圧を高める思考です。
徹底した「なんで」「どうする」の思考によって現実圧力に適応することが出来る。自己正当化や現実否定からは何も生まれない。
現実圧力を捉えようとする思考とは、具体的に言えば相手の期待を的確に捉える、という事。
社会に出れば、期待を掛けてくれる相手は無限に存在するし、その期待に応える為には自分一人の限界+周りにさらに期待する、という形で圧力源 :tikara: ⇒活力源 😛 を生み出す循環が形成されます。
ところが、密室家庭あるいは圧力を極力排除しようとする空間では、活力上昇の循環が削がれるだけでなく、「何もしなくても良い常態」のまま長年放置 🙁 されてしまい、適応力が育まれる機会が奪われてしまう事になってしまいますね。
世間には“夢を持ちつづければそれは実現する”とうたった本やプログラムトレーニングがあふれています。しかしそれで成功をおさめる人は皆無でしょう。
なぜなら実現とは取巻く現実を外圧として受け止め、あらゆる可能性を追求してそれを乗越えようとする適応過程(=闘争)であって、頭の中の思い込みでどうこうなるものではありません。
そしてこの実現(適応)過程は本能動物から観念を持って生きる人類に共通・普遍の「摂理」です。
ですから、“夢でなく現実を直視しつづける”こと、“可能性に向かって自らが変化(適応)する”こと、そして初めて“現実を変える=実現する”ことができる、のだと思います。
生物すべてにおいて、根本では、外圧への適応という課題があり、例え、針の先ほどのわずかな可能性であったとしても、先端の適応可能性へ収束することが、生物として真っ当な行動であり、収束できていることが、すなわち「統合」されているということ。そして、そのときの具体的な外圧、具体的な先端可能性の形(唯一ではない)によって、自ずから、統合様式も、統合理論もシステムも決まっていくし、洗練されていく。
つまり、外圧を捉え、可能性を探り、適応に向かって収束していくことで「自ずから統合される。」と言った方が的確なのではないか。
どうですか?
活きる上で、いかに外圧が必要で、かつそこに適応する事こそが活力の源泉であるか、ということが解りますよね。
現在の憲法にもうたわれている、何の根拠も無い「人権」や「自由」を盾にしても、活きるための活力など全く湧いてきません。
困ったときの正当化ではなく、あくまでも現実直視をすれば、必ず外圧は存在する。
その外圧に適応していく事こそが、育つ事であり、活きることなのだと。
その圧力を排除してしまう環境は、絶対に危険です。密室家庭から脱出し、みんなで活きることの充足を感じられる場を、ドンドン広げていきましょう!
かわいでした。
投稿者 kawait : 2008年02月01日 TweetList
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コメント
投稿者 yamasyo
yamasyoさん、コメントありがとうございます。
親達、大人達の外圧忌避が、現在の子ども達の活力不全の直接的な原因かもしれませんね。
子ども達を見守る余裕すら無い大人ほど、子どもを構い、圧力を排除し、人格形成を阻害している、というマイナス構造が見え隠れしています。
投稿者 かわい
>あくまでも現実直視をすれば、必ず外圧は存在する。
その外圧に適応していく事こそが、育つ事であり、活きることなのだと。
まさに、同感!
世の全ての親たち、大人たちが自覚すべきことだと思います。