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2008年01月18日

学校ってどうなってるの?42~なぜ学校制度を海外に求めたのか~ 

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いったいどんな制度だったのでしょうか
<欧米に学んだ教育制度の内容>

明治時代の初期は、江戸時代から西洋型の近代国家への移行期間で、とにかく欧米のあらゆる仕組みや制度の導入が行われた。文明開化を合い言葉に、海外調査がスタートしたのは明治4年(1871)。まず、岩倉具視を特命全権大使とした使節団が、欧米の様々な制度を調査研究する目的で、明治4年11月から約2年、米欧12ヶ国を歴訪した。

<文部省の誕生と教育制度の導入>
文部省は教育制度づくりの要となる機関として、使節団の歴訪に先立って明治4年に設立された。「文部省」の名前の由来は奈良時代後期まで存在した式部省にある。式部省は律令制における八省の一つで、役人の人事や養成機関である大学寮なども統括していた機関だが、後に、当時の中国、唐の名称を真似て文部省(ぶんぶしょう)と改称された。

明治政府は、都道府県に対し小学校教育を奨励したが、実際には、徳川時代末期の制度がそのまま続いており、武士の子弟は藩校や私塾で学び、庶民の子弟は寺子屋で学んでいた。
学制が発布されたのは(明治5年)1872年。それは、フランスの教育制度をそのままとり入れたものだった。学制の最初の計画では、大学校8、中学校256、小学校5万3760校を設立するとのことだったが、日本の国情に合わず、授業料も高いなど、計画はうまく進まなかった。

そのため、岩倉使節団の一員だった田中不二麻呂は、欧米の教育制度を調査研究し、明治6年にアメリカから招かれたデビット・モルレー (David Murray)とともに、教育制度の基礎を作った。日本の教育制度は、欧米を手本に導入が検討されることとなった。

教育理念はむしろアメリカ的だが、学制としてはフランス式。当時の日本は総人口でもフランスと似ていて約3,000万人でした。そこで人口600人を1単位にして、日本全土に54,000の小学区を作った。また、210の小学区ごとに1中学区として32中学区ごとに1大学を置いて大学区と呼んだ。

また、学問は自分のためであっても、もし精を出して勉強しないと社会の中で生きていけないという、大変実利的な趣旨の『仰せ出され書』がその根本にあって、授業料は自分で払えとか、子供を学校にやるのは親の義務だといったことが説明してあったらしい。

🙄 ちなみに 岩倉使節団とは岩倉具視以下留学生43名(若き女性5名含む)をあわせると107名の集団。1年10ヵ月あまり欧米を視察した。目的の1つは、不平等条約の改正に向けた予備交渉です。もう一つは欧米各国の国家制度、産業技術、伝統文化などを視察すること。まさに「智識を世界に求め」たのです。

🙄 この留学生たちはケンブリッジ大学やハーバート大学に留学し、そこで得た繋がりは後の日本の外交の重要な人脈のひとつとなった。後のアメリカ大統領ルーズベルトにまで繋がるような人脈もここから生まれた:tikara:

ではなんで今までのように中国大陸ではなく欧米だったのでしょうか
ここで教育制度の範をどこに求めるかは、当時日本がどう生き残っていくかという外圧を分析する必要があると思います。当時、福沢諭吉の学問への志が明治日本の国家方針に与えた影響は大きいと思われます。以下はその影響を中心に考えてみたい。

福沢諭吉の学問への志が明治日本の国家方針に与えた影響は大きい。
彼が著した『西洋事情』の内容は欧米諸国の文化・社会・政治・軍制・経済・倫理など広範囲に及ぶものである。 従って、 本書は当時における欧米の入門書として普及した。この本は諭吉が渡米している間に、日本国中にすさまじい反響を呼んだ。正式な版だけで15万部を下らず、偽版も入れれば20万から25万部は売れたという。

『西洋事情』は岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文など朝廷や薩長の指導者層にも、よまれた。坂本龍馬は『西洋事情』を読んで「船中八策」をつくり、土佐の後藤象二郎に示した。これをもとに後藤は大政奉還の建白書を書き、将軍・徳川慶喜に提出した。後藤が慶喜に謁見して、大政奉還を説いた所が、慶喜は後藤などより西洋の事情に詳しく、後藤を驚かせたが、これは慶喜自身が『西洋事情』を丁寧に読んでいたからだという。

《学問のすすめ》は、明治5年から13年間に70万部普及した。 これは当時の日本の人口3千5百万人からすれば現代のミリオンセラーである。内容を要約すると「まずは学問をすることによって心身および一国の独立を果たし、さらに学問をして世の中に貢献しなさい」ということ。

さらに彼は、明治18年(1885年)3月16日、「時事新報」紙上に掲載された社説で「脱亜論」を説いている。それは、阿片戦争で敗北し次々と欧米列強に植民地化されていく清国の有様を眼前にして危機感を覚え、それまでのように清国を先進国の代表として崇め奉っているのではなく、欧米文化を取り入れて「脱亜入欧」を果たし「近代化しなければ、日本も清国のように植民地にされてしまう、と説いた。

これは福澤だけでなく当時の有識者の共通見解だったようです。

以下「諭吉は香港の船上で何を考えたのか」に続きます。よかったらクリックして進んでください。

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以下引用

《無数のイギリス軍艦が浮かぶ香港で、諭吉は何を考えたのか。》人物探訪:文明開化の志士、福沢諭吉
より 
■福沢諭吉は、欧州各国で議会制度、陸海軍の規則、会社の仕組み、民間による鉄道事業・ガス事業など、西洋文明の仕組みを貪るように観察し、また多くの洋書を購入した。ロンドンからは、中津藩の重役に軍政改革・洋学振興を促す手紙を書き送っているが、その中には次のような一節があった。

当今の急務は富国強兵です。富国強兵の本は人物の養育 に専心することです。[1,p174]
中略
■新しい日本を作るための一大事業■
慶応4(1868)年3月14日、京都紫宸殿で明治天皇が「五カ 条の御誓文」を神明に誓われた。その冒頭の一条は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」で、「会議」、「公論」の語句 は『西洋事情』からとったとされている。第4条の「旧来の陋習(ろうしゅう、悪い習慣)を破り、天地の公道に基づくべし」は、四民平等によって諭吉が「親の敵」とした門閥制度の打破につながった。

さらに第5条の「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」は、諭吉の学問への志そのままであった。こうした「文明開化」による他に、国家の独立を維持する道はない、という諭吉の考えが、明治日本の国家方針として宣明されたのである。

福沢諭吉の『西洋事情』は、文久2年(1862)にヨーロッパに渡ったときの経験をもとに帰朝後3年あまりの調査研究を経て、慶応2年にその初編、がでている。二編は明治2年、 外編は慶応3年の序文をもち、 各編が逐次刊行されていたが、 明治6年版で集成された。

内容は欧米諸国の文化・社会・政治・軍制・経済・倫理など広範囲に及ぶものである。 従って、 本書は当時における欧米の入門書として普及しており、 諭吉自身も 「余が著訳中最も広く世に行はれ最も能く人の目に触れた」 書であったと語っている。

中略
さらに「学問のすすめ」には、学者の役割が再三論じられている。彼が考える学者の役割とは、政府と国民の仲立ちであり、文明の担い手である。そして、まず彼自身がその役割を果たそうとしていた。慶應義塾が、その表れである。

引用終わり

もともと明治の支配者層(ほぼ薩摩閥長州閥)は江戸末期の敗戦経験から欧米にたいして激しい圧力(対抗意識)を感じていた。
そこに福沢の西洋事情によって欧米の状況と、アヘンで敗北し、植民地化されてしまった清国の状況を知った。徳川慶喜から岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文など朝廷や薩長の指導者層、さらには坂本龍馬、徳川慶喜までもが欧米列強を日本の共通の外圧として感じていたのだと思う。

それが明治政府を貫く外圧としてあり、指導者層みんなが感じていた。だから中国ではなく欧米にその範を求めるしかなかったのだと思います。

私はこれを調べていて福沢諭吉のイメージがすっかり変わりました。
まず福沢諭吉の息子達は日本興行銀行総裁・時事新報社長をになったおり、ファミリーとしては三菱財閥の創始者岩崎弥太郎・安田財閥で大蔵大臣日銀総裁となった結城豊太郎・三井財閥で大蔵大臣日銀総裁となった池田成彬と閨閥を形成している。

彼自身は政治・経済の活動には関わらなかったようだが、政治・経済・医学・男女交際に至るまで多数の著作を残している。

『西洋事情』『西洋旅案内』『窮理圖解』『世界國盡』『學問ノスヽメ』『ひゞのをしへ』『文明論之概略』
『通俗民權論』 『通俗國權論』『民情一新』『時事小言』『福翁自伝』『福翁百話』『福翁百餘話』
『瘠我慢の説』 『丁丑公論』『全国徴兵論』『男女交際論』『尊皇論』『修身要領』等

彼の周りには実業家(金融資本家)たちがおり、もしかすると当時教育界・財界・政界まで強い影響力を持った思想的リーダーであったのかもしれません。

投稿者 tennsi21 : 2008年01月18日 List   

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コメント

学校で明治時代のところででてきた「富国強兵」っていうスローガンの元は、福沢諭吉だったんですね~!その背後には、「このままでは日本は欧米諸国の植民地にされてしまうかも!」っていう危機意識。

やりすぎ!?かとおもえるほどの極端な西洋化を果たしたのも外圧を強く感じてそれに適応しようとしたからなんだなと感じました。
観念を塗り替えて進化していくスピードのものすごい速さのいい例が明治時代なんですね。

投稿者 bunchan : 2008年1月19日 11:37

面白いです、良くお調べになりました。
当時の指導者の危機意識は、清国の敗退が諸外国の侵略にある..との指摘は納得できますね。所でこの指導者に共通する意識改革は何処にあるのでしょうか?・当時の列強諸外国の侵略危機意識が全てではないように感じますが、如何でしょうか?。

投稿者 goen : 2008年1月22日 18:41

幕藩体制の末期、このままでは日本は滅びる、という危機意識は憂国の志士達の間に広く内在していた、という見方もあります。
たまたまそのきっかけが黒船だったというだけだと。
実際、蓋を開けてみたら徳川の米びつは空っぽだったというし。
他国に蹂躙されるままの清や朝鮮と違うのは、その改革を自ら成し遂げた、というところでしょうか。

投稿者 匿名 : 2008年1月24日 06:46

日本歴史の中で明治の中から大正の期間は一般市民も政治家も激動期であったと思います、その期間には諸外国との不平等条約を何とか改定する為賢明な努力があったと思います。アジアの諸国は日本を手本に自国の独立を懸命に模索していた時期です、この期間に日本は学校に何を求めたのか。通り一遍とは違った見方があったように思われます、しかしその事をしる書物が少ないようです。

投稿者 goen : 2008年2月28日 09:17

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