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2008年01月05日

学校ってどうなってるの?41 明治時代の学校制度

□謹賀新年 みなさん、今年もよろしくお願いします。 😀
昨年後半は江戸時代の記事でしたが、今年は明治時代の教育の話ですね。まず、明治の学校制度はどうだったか?について調べてみました。 😀

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 日本は、教育立国として、近代産業国家への転換を迅速に果たしたことは、明治時代の筆すべき出来事であったと思いますが、その明治の学制ですが・・・。
「国民の歴史(西尾幹二氏)」が参考になりました。引用させてもらいます。

 

明治5年に、「学制」が発布されます。フランスの制度を模して、8大学区、各大学区に32中学区、各中学区に210小学区を設けると定めた中央集権的体制です。財力の無かった当時としては時期尚早で、実施不可能な面が多く、明治12年には「教育令」に取って代わられた。それも問題があるとして、さらに明治18年に森有礼が初代文部大臣となり、翌19年に大学・中学校・小学校・師範という学校別に区分された「学校令」という4つの具体的な法令発布し、これによって、一応地に足が着いたのである。
それでは、この学制の特徴を調べてみます。

1.身分によらない、単線型学校制度

 これらの学校制度は、江戸時代の、藩校、寺小屋を廃止し、階級別でない単線型学校制度を作り出した。欧州は、現在もなお、3つに分かれた複線型の学校系統、すなわちエリート階級、中間実務者階級、労働者階級という三分岐型教育制度を継続している。
華族(貴族)のための特別な学校は、一つだけ作られたが、これは社会的影響が小さい。

2.高い義務教育の就学率 

 近代教育の先進国イギリスと比較すると、イギリスの場合には、産業革命が成功して一定の段階にまで達してから、少しずつ義務教育の就学率が上がっていくのだが、日本の場合はその逆だった。「学制」の発足した明治5年のわが国の小学校の就学率はわずか28%で、イギリスの40%よりも格段に低かった。しかし、明治33年には81%と早くもイギリスと肩を並べ、明治43年前後に、両国は100%に近い数字を示した。イギリスより、約1世紀ほど産業革命が遅れたと考えられる、る産業革命だが、教育が先頭に立って、社会の工業化を引っ張っていった。中等教育に関しては、明治末年には、日本12%、英4%で近代教育の先進国を量的に凌駕。

3.競争的性格の学校制度

 欧州では、学校の生徒を互いに競争させるという性格がもともとなかった。一方、中国の古代社会では「科挙(私権制度)」が、皇帝が有能で忠実な官僚群を自由に動かす必要から生まれた。明治以降の日本では教育が競争と結びつくや、客観的で、そしてきわめて合理的な試験制度が採用され、小学校からピラミッドの頂点をめざす競争試験が実施され、これがあっという間に官吏登用法として用いられ、他国に例のない高い効率を発揮することに成功した。
そこでは、「公平」と「成績」という2つの原理が最優先されたのである。

投稿者 hoop200 : 2008年01月05日 List   

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コメント

初めましてこんにちは。
ノリアキと申します。
かなり過去のお題へ書き込みを行いまして、
間違っている所もあるかもしれませんが、
是非目を通して頂きたいと思います。
また、書き込みミスの為に三重投稿となってしまいまして申し訳御座いません。

投稿したのは
父親の子育て参加はますます家庭の崩壊に近づく?! 2007年1月12日分です。

投稿者 ノリアキ : 2008年1月5日 20:23

あいうえお

投稿者 匿名 : 2009年6月10日 09:28

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