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学校ってどうなってるの?41 明治時代の学校制度

□謹賀新年 みなさん、今年もよろしくお願いします。 😀
昨年後半は江戸時代の記事でしたが、今年は明治時代の教育の話ですね。まず、明治の学校制度はどうだったか?について調べてみました。 😀

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 日本は、教育立国として、近代産業国家への転換を迅速に果たしたことは、明治時代の筆すべき出来事であったと思いますが、その明治の学制ですが・・・。
「国民の歴史(西尾幹二氏)」が参考になりました。引用させてもらいます。

 

明治5年に、「学制」が発布されます。フランスの制度を模して、8大学区、各大学区に32中学区、各中学区に210小学区を設けると定めた中央集権的体制です。財力の無かった当時としては時期尚早で、実施不可能な面が多く、明治12年には「教育令」に取って代わられた。それも問題があるとして、さらに明治18年に森有礼が初代文部大臣となり、翌19年に大学・中学校・小学校・師範という学校別に区分された「学校令」という4つの具体的な法令発布し、これによって、一応地に足が着いたのである。
それでは、この学制の特徴を調べてみます。

1.身分によらない、単線型学校制度

 これらの学校制度は、江戸時代の、藩校、寺小屋を廃止し、階級別でない単線型学校制度を作り出した。欧州は、現在もなお、3つに分かれた複線型の学校系統、すなわちエリート階級、中間実務者階級、労働者階級という三分岐型教育制度を継続している。
華族(貴族)のための特別な学校は、一つだけ作られたが、これは社会的影響が小さい。

2.高い義務教育の就学率 

 近代教育の先進国イギリスと比較すると、イギリスの場合には、産業革命が成功して一定の段階にまで達してから、少しずつ義務教育の就学率が上がっていくのだが、日本の場合はその逆だった。「学制」の発足した明治5年のわが国の小学校の就学率はわずか28%で、イギリスの40%よりも格段に低かった。しかし、明治33年には81%と早くもイギリスと肩を並べ、明治43年前後に、両国は100%に近い数字を示した。イギリスより、約1世紀ほど産業革命が遅れたと考えられる、る産業革命だが、教育が先頭に立って、社会の工業化を引っ張っていった。中等教育に関しては、明治末年には、日本12%、英4%で近代教育の先進国を量的に凌駕。

3.競争的性格の学校制度

 欧州では、学校の生徒を互いに競争させるという性格がもともとなかった。一方、中国の古代社会では「科挙(私権制度)」が、皇帝が有能で忠実な官僚群を自由に動かす必要から生まれた。明治以降の日本では教育が競争と結びつくや、客観的で、そしてきわめて合理的な試験制度が採用され、小学校からピラミッドの頂点をめざす競争試験が実施され、これがあっという間に官吏登用法として用いられ、他国に例のない高い効率を発揮することに成功した。
そこでは、「公平」と「成績」という2つの原理が最優先されたのである。

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