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2007年12月15日

学校ってどうなってるの?34~市場拡大を担った日本の商人って?

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逆説の日本史挿絵より
>徳川幕府が自ら作り出したこの経済(+軍事)圧力こそが、統治権を与えられた藩という地域社会にとっての外圧であり、この締め付けに適応すべく、武士階級から庶民まで地域が一丸となって農業や経済の振興に努めた・・・
日本の中世~近世に至る市場の発達は、欧米のような一部の「金貸し」と国家加担による私権拡大が動因ではなく、国内の社会統合のためのシステムの一翼として作り出されたのではないか?ということです。>学校ってどうなってるの?32~江戸の教育制度の背景に市場拡大あり

たしかに江戸時代の教育制度の背景にはこの否応のない市場拡大の圧力が働いています。
欧米とは違いそもそも日本ではどういう形で商人が生まれたのでしょうか。調べてみました。
まず日本の商人の歴史は古く発祥は供御人(くごにん)神人(じにん、じんにん)と呼ばれた人たちがいます。

①・供御人(くごにん)とは、日本中世において、朝廷に属し天皇・皇族などに山海の特産物などの食料や各種手工芸品などを貢納した集団である。後に、貢納する物品の独占販売権を取得し、座に属する商人と同様の活動を行った。禁裏供御人とも。
古代においては、天皇・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を贄(にえ)として貢ぐ慣習があり、律令制のもとにおいても租庸調などの税とは別に、贄の納付が定められていたと考えられている。・・・・・・・・・・・・・・・・・
更に、保元元年(1156年)の「保元新制」において神人・供御人制が確立したと見られている。
彼らは、貢納物の原料採取・作業・交易をする場を求めて移動・遍歴することを必要としていたため、関銭・津料などの交通税を免除され、自由に諸国を往来できる権利を得ることとなった。また、聖なる存在として国役の免除、給免田の付与なども獲得した。

②・神人(じにん、じんにん)とは、古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。
平安時代の末になると、日本でも大量の宋銭が輸入され、都市を中心に貨幣経済が浸透してくる。このような中、富裕な僧侶、神人などが延暦寺などの有力寺社の保護のもと、無担保で高利の貸金業(無尽銭土倉)をはじめ、借上(かしあげ)と呼ばれるようになる。これらの業者が担保として物品を預かるようになり、担保品を保管するために土蔵を建てたことから土倉と呼ばれるようになった。また、逆に社会の不安定さを反映して土倉を持つ商人に貴重な財産や文書などを預けて災害などに備える風潮も発生し、商人は預かった財産を元手に金融業を始める者もいた。こうした商人もまた、土倉のルーツと考えられている。なお、こうした風潮は商人間のみに留まらず、朝廷や幕府から庶民に至るまで広がっていったと考えられており、後の納銭方・公方御倉などに発展していく契機となったと考えられている。

土倉
土倉(どそう/とくら/つちくら)は、鎌倉時代および室町時代の金融業者。現在の質屋のように物品を質草として担保とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。
本来は土塗りの壁によって周囲を囲った倉庫を指していた。奈良時代の記録に「土倉」という語も出現している。ただし、堅固な土倉の出現は鎌倉時代後期とする説が有力である。なお、蔵書家として名高い平安時代の左大臣藤原頼長の書庫ですら、板壁の上に石灰や蠣殻を塗って補強したものであったとされ、頼長の性格からしてその当時のもっとも頑丈な倉庫であったと考えられている。

④町衆(まちしゅう/ちょうしゅう)とは、室町時代から戦国時代にかけての、特に土倉などの京都の裕福な商工業者である。応仁の乱後の京都復興においての重要な人物である。自治と団結を進め、文化を作った。主に法華経を信仰する。
平安時代の京童などを継承する概念で近世、江戸時代の町人へと継承される。

古来教育の場として存在していた神社仏閣は、大陸の新技術を背景に富を蓄え、その富を守るために武力を持ち、社仏閣はその経済力と共に一大圧力団体と化していった。ちなみに信長の楽市楽座はこれら商人の特権を剥奪する物で、比叡山の焼き討ちはそういう圧力団体の排除をねらったものであり、単なる宗教団体の弾圧を図ったものではないようです。

⑤江戸時代の商人(両替商)
大名貸しの見返りに両替商は苗字帯刀を許され、町人でありながら武士と同じ待遇を受けられた。
はたからみたらもうけは大きいが、幕府は絶えず大名の配置換えをおこない、些細な不始末を理由に大名を改易(罷免)するものなので、大名家がつぶれると共倒れになる紙一重の危険な商売であった。
両替商の中でも本両替と呼ばれる仲間は、両替よりむしろ、他人のカネを預かり、貸し付けることを本分としていた。いわゆる金貸しである。彼らは商都大坂と江戸との間で現金を輸送する危険をさけるため手形と為替の信用取引で元締めを勤めることを本業としていたので何よりも世間の信用が金看板であった。
幕府の公金の扱いまでを引き受けた彼ら本両替えといわれる仲間は今で言う銀行の役割を担わされてきたのである。
徳川幕府が700万石であったが、明治維新によって失った筆頭両替の加島屋久右ヱ門が失った貸付金は米にして1000万石あった。それほどの富を蓄積していた。幕府はまだ貨幣改鋳という究極の財政再建手段があったが、他の藩にはなかった。
徳川幕府ですら8代吉宗の時代に早くも財政改革の必要に迫られたが、諸藩は恒常的に財政危機状態に置かれていた。

ここに江戸幕府を通じて金貸し(商人)の活躍する背景があった。
江戸幕府の国内の社会統合のためのシステムの一翼とはいえ、彼らは武力社会の抜け道として市場に可能性を感じていたのだと思います。

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現代に繋がる住友財閥・三井財閥もこの戦乱が終わった江戸時代を出発点としています。
彼らは武士であることを捨て、商人となって生きることを目指しました。
彼らも武力社会の抜け道として市場に可能性を感じていたのだと思います。

>豪商三井の歴史は六角氏の旧臣と言われている三井高安の長男・高俊が元和のはじめころ武士をすて伊勢国松坂で質屋と造り酒屋を開業したところから始まる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E9%AB%98%E5%88%A9
>平家の末裔である戦国武士だった住友家の先祖は、徳川家康の子で結城家へ養子入りした結城秀康に用いられるが、住友家の武家の歴史はここまでである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%AE%B6

投稿者 tennsi21 : 2007年12月15日 List   

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