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2007年12月16日

学校ってどうなってるの?35~江戸期の三貨制度と算盤~

江戸時代の代表的な民間教育機関である寺子屋では、【読み・書き・算盤】を教えていたといわれています。しかし、なぜ、【算盤】だったのでしょうか?
村落共同体という対面共認の中では、算盤という算術は、なくても、日常生活では困らずに生きてゆけるように思うのです。

学校ってどうなってるの?32~江戸の教育制度の背景に市場拡大ありと記載されていますが、 【なぜ、算盤?】を読み解く上で、江戸時代の経済はどんなものだったのか探ってみましょう。

その経済や市場を解き明かすキーワードの一つとして江戸期の貨幣制度である【三貨制度】があげられると思います。

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【三貨制度】とは、簡単に言うと、金貨・銀貨・銭貨(銅貨)の三つを幕府統制のもと、市場の交換価値として整えていったということです。市場が活況を呈する江戸期において、物の交換価値を一定にするこの貨幣制度が果たした影響は大きく、江戸後期に多くの寺子屋が成立する中で、その外圧に対応すべく、算盤という学問が、丁稚奉公や生きてゆく上で、必要になったということだろうと思います。

さて、その【三貨制度】の歴史を紐解くいい資料があります。
【江戸期三貨制度の萌芽】西川裕一著
にサイトに、江戸よりも前の平安、鎌倉、室町時代などの貨幣の成り立ちや、その背景がしっかりとまとまっていますので、続きでご紹介します。

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【江戸期三貨制度の萌芽】西川裕一著より

————————————————-引用
◆要旨
わが国独自の貨幣制度といわれる江戸期三貨制度は、中世における銭貨
(渡来銭)を中心とした貨幣経済に、貴金属として高い素材価値を有する金や銀を加えて、それぞれの交換価値を定め、貨幣としての体系を整えた制度である。

この三貨制度は、一朝一夕に形作られたものではなく、古代における皇朝銭の鋳造と途絶、中世における渡来銭を中心とした銭貨経済の発達、地金としての金や銀の使用面における役割の変化、中国を中心とする東アジア経済圏における海外交易の状況、時々の為政者による国家支配への政治的目論見といった諸要因が複雑に影響し合い、長い醸成期間を経たうえで生まれたといえる。

中世における銭貨をベースとした貨幣経済に、国際決済手段として用いられていた銀は秤量貨幣として導入され、一方、金については、形状、品位、および量目といった規格が統一され、額面が付されるなど、貨幣としての形態を良く整えたものとして制度化された。この金貨を価値基準として貨幣制度の中心に据えたところにわが国独自の特徴を見い出すことができ、徳川幕府ができるだけ海外の影響を受けないわが国独自の安定した貨幣制度を構築しようとした姿が窺える。

江戸時代は、貨幣制度がそれ以前の主として中国の影響を受けた制度からわが国独自の制度へと移行した画期的な時代であったといわれている。すなわち、江戸幕府を開いた徳川政権は、中世から広く一般に用いられていた銭貨に加え、銀を秤量貨幣の形で導入し、さらに戦国時代からの鉱山開発の結果獲得された金を貨幣制度の中心的存在として位置づけたのである。

中略

家康は、主要鉱山直轄による貨幣鋳造権の独占・掌握を実現し、金銀を社会資本としての貨幣に活用した。この豊富な金銀産出を背景に蓄積された金と銀、および銭貨とによって構築されたのが、三貨制度と呼ばれる江戸期貨幣制度であった。

中略

◆江戸期貨幣制度に金貨が組み入れられた理由
江戸期貨幣制度の大きな特徴は、銭貨を中心とした中世の貨幣経済の中に、金や銀を原料とした貨幣が組み入れられて、幕府の許認可に従って鋳造され、流通された点である。慶長金銀の発行は慶長6(1601)年のことであった。中世末に銭貨流通がいかに活発化したといっても、銭貨中心では高額決済時に大量の銭貨が必要となり、貨幣経済の発展に限界が生じていた。こうした中、金や銀といった貴金属を素材とした貨幣の出現は、貨幣経済を飛躍的に進展させることになった。兵農分離による城下町やその他への人口集中、参勤交代制に起因する遠隔地間における商品流通の出現が、中世経済とは大きく規模の異なる貨幣需要をもたらし、それに金銀貨が応じることとなった

家康が金銀貨を貨幣制度に組み入れた理由として、は、中世末に中国からの銭貨流入が減少して欠陥銭貨が大量発生することとなり、撰銭行動が社会問題化するといった苦い経験を踏まえ、中国からの好ましからざる作用を断ち切った形での貨幣システム構築が必要とされたことを指摘し、この結果、中国ではつい
に普及することのなかった金貨を独自に鋳造することにより、中国の通貨事情からの完全独立を果たしたと述べている。

中略

わが国における中世から近世にかけての時期に、周辺地域では地金としての銀が国際決済手段として使用され、また銭貨もやり取りがなされていた状況にあって、わが国もこうした地域との交易を通じ、貨幣システムそのものにも影響を受けやすい状況になっていたのである。このため、徳川幕府は、中世後期におけるそうした東アジア経済圏の状況を眺め、国内の決済用通貨としては海外の影響を受けにくい金貨にその機能を求め、貨幣制度に組み込んだと考えられる

中略

◆銀貨導入の背景
一方、家康が、金貨とともに徳川の貨幣制度に慶長丁銀・慶長豆板銀といった秤量銀貨を導入した背景についてみると、1590年頃から急速に発展した京都・大坂における銀遣いの状況が大きな要因となったと考えられる。西日本での銀遣いを決定づけたのは、石見国にあった大森銀山をはじめ、但馬国の生野銀山、および天正期(1573~1592)前後に産出量が増大した摂津国の多田銀山などが近辺に存在するといった地理的条件に加え、天正19(1591)年に、住友家の祖先である蘇我理右衛門が、泉州堺の津において、白水という外国人技術者から、銀銅吹分の方法を習得し、銀を大量に生産するようになったことが大きい。

中略

さらに、家康が銀遣いを認めてこれとあえて妥協したことについては「庶民が豊臣と徳川を対等視するほどの豊臣贔屓だったからである。秀吉の遺産をもとに、秀吉の息子であった豊臣秀頼は依然として隠然たる力をもっており、そのような秀頼に心情的にくみすることの多い商人・町人層を、金貨の強制によって大坂方=敵にまわすマイナスを避けるとともに、公鋳銀貨を秀頼の膝元に流すことによって、大坂城内に備蓄された金銀の貨幣への鋳造に制約を加え、つねに天下が徳川のものであると警告し、無言の威圧を加えるという政治的配慮を優先させたことによるものである」との考えを示している。

いずれにしても、家康は、当時経済活動の中心的な役割を果たしていた大坂経済圏の混乱を回避し、わが国の経済活動を安定成長の軌道に乗せることを最優先課題として位置づけて、当時地域的に用いられていた秤量銀貨の貨幣制度への導入を決めたのであろう。また、銀貨が金貨と異なり秤量貨幣として導入されたのは、国際決済手段としての銀が秤量貨幣としての形態をとっていたことが大きく影響していると考えられる。

ところで、前述のとおり、東アジア経済圏で銀が需要される中にあって、近世の初め、わが国の良質の銀が中国商人やヨーロッパ商人の手によって大量に運び出されるという状況が起きていた。ここで、幕府は慶長14(1609)年に外国貿易の決済における灰吹銀11の使用禁止と、それに代わる慶長丁銀の使用とを命じている。これにより、慶長丁銀よりも品位の高い灰吹銀の海外流出は阻止できたものの、慶長丁銀の総鋳造量の80%が海外に流出することとなり、国内における流通銀貨の統一は一筋縄には達成できなかったとの事。。

◆公鋳銭貨導入の背景
金銀貨幣の出現により、それまであった銭貨の機能が変化することとなった。中世において唯一の計数貨幣として機能していた銭貨が、近世においてはその役割を小額取引の決済用に限定されたのである。さらに寛永13(1636)年に質の良い寛永通宝が鋳造されるようになると、発行者である幕府は銭貨の流通監視にかかる労力を必要としなくなり、使用者も銭貨の質の善し悪しを心配する必要がなくなった。
ここに、徳川幕府による金貨、銀貨、および銭貨の鋳造・発行が開始されることとなったが、本格的な三貨制度の完成は、寛永通宝以外の銭貨通用が禁止される寛文10(1670)年まで待たなくてはならない。もちろん、この時点まで中世より使用されていた渡来銭や模鋳銭が全国を流通圏として通用していたと捉えることが可能で、こうした視点に立てば、銭貨をベースとした貨幣経済が中世の時代から受け継がれていたとみることもできる。
さて、徳川幕府主導により初めて本格的に鋳造・発行された銭貨である寛永通宝は、慶長金銀の発行に35年遅れての導入であったが、この長い歳月が必要であった理由としては、中国による政治的・経済的支配からの独立を切望する、徳川幕府の対外政策スタンスを指摘することができる。もともと日本は中国に従属的な冊封体制の下にあって、日本国王は中国から任命されるという建前をとっており、したがって貿易も朝貢貿易の枠内で行われていた(脇田修[1991])。その後、慶長20
(1615)年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、徳川幕府が国内で絶大なる権力を握ることとなり、対朝鮮貿易や朱印船制度の確立などに成功を収めたことから次第に自信を深め、逆に中国を中心とした政治経済秩序の下に位置づけられるのを快しとせず、自らの正統性を主張するようになった。ただ、国としての対外的な独立を達成するためには、まず、東アジア経済圏の中で、徳川政権が日本の統一政権として認知されることが必要であった。このために、幕府としてはまず国全体を平定することが先決であり、武家諸法度や参勤交代制を制度化したのである。そして、こうした国全体を統制・制御するシステムが十分に機能することを見極めたうえで、初めて公鋳銭貨の導入に踏み切ったと思われる。このため、結果として30余年という長い調整期間を必要としたのである。徳川幕府として初めて本格的な全国生産を行った銭貨にわが国の元号を彫り込んだのは、国家独立の意思表示の現われとも考えられ、銭貨公鋳という行為は後の鎖国に繋がる重要なステップとして位置づけることができるのではないだろうか。

やはり都市部では、商人・町人の行き交いが激しい。そのための一定の交換価値をもとめ、貧困というみんな課題に向かっていったのだろうと思います。試験獲得の可能性が開かれたという課題圧力があったのでは?と思います。それは、算盤という勉強の理由に、こんな市場経済拡大からの影響を見手取れると思われます。また、この貨幣制度で、大名・武士と商人、町人などを統制して藩を統制していたのだろうと思いますが、独立した貨幣制度を作るあたりは、幕府の狙いは、支配だったのでしょう。しかし、その支配が、国家経済を高め、教育制度を高め、算盤を寺子屋でならうという圧力に繋がっていったのだろうと思います。

投稿者 2310 : 2007年12月16日 List   

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コメント

縄文と古代文明を追求しようブログで経済史を調べていて、この記事にたどり着きました。よい記事をありがとうございます。参考になりました。

投稿者 怒るでしかし~ : 2010年5月1日 22:16

私は一日中blog.katei – x.netを読むのが好き
giveaway Logitech Revue

投稿者 Logitech Revue giveaway : 2012年5月21日 10:46

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