またか!Σ( ̄ロ ̄lll)10代 No.4~昭和初期(戦前)の事件~ |
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2007年10月19日
学校ってどうなってるの23~江戸の外圧と教育
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」by徳川家康
「学校ってどうなってるの?」シリーズ久々の再開です ご無沙汰しておりました
今回からしばらくは、前回・・・と言っても9月頭だったのですが・・・「学校ってどうなってるの22」で中間まとめを行ったように、歴史を振り返る中から、これからの教育のあるべき姿を考える上で必要な認識を抽出していこうと思います。
現在の教育の問題を考える上でも不可欠の視点として・・・何らかの社会的圧力なしには教育は上手く機能しないのではないかと思います。
家庭においても学校においてもガタガタの教育を立て直すためには、正確に現在我々に作用している外圧を掴むことが不可欠ではないかと。
従って、各時代の外圧⇒社会や集団の在り様⇒教育の目的や制度・・・と言った軸で分析を進めていくことで、突破口が見えてくるのではないかと考えています。
多少“教育”から外れてしまうこともあるかもしれませんが・・・ :nihi: よろしくです :tikara:
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早速ですが、手始めに巷で密かに流行っている江戸時代に遡ってみようと思います。
まず叩き台として、江戸時代の外圧、社会・集団、教育について、ブログ「新しい「農」のかたち」の 「江戸時代って、どんな社会だったの?」に「るいネット」などで追求された投稿がまとめられていますので、それを参考に全体像をざっと俯瞰してみようと思います。
■江戸時代の外圧とは何か?
①西洋列強からの圧力
・江戸時代の対外政策といえば「鎖国」。しかし、だからといって国外からの外圧がかかっていなかったかと言うと、そうではなく、(ほぼ)幕府独占で貿易も行われていたし、海外の情勢はほぼ正確に把握していた模様。
・鎖国は、国内で自給自足できていたためにそもそも貿易の必要が無かったこと、貿易による利益を幕府が独占すること(諸藩の排除)、国学と相容れないキリスト教の排除などの戦略によるものと思われる。
②鎖国→国内資源で自給自足しなければならないという課題圧力(同類圧力)
・江戸初期には森林破壊が問題化したが、官民が一体となって植林を行い、回復させている。
・また、資源を無駄にしない「サイクル社会」(“リサイクル”ではない。自然を組み込んだ“サイクル”)を実現できたのも、こうした課題共認が成されていたからではないか?
③幕藩体制~「藩」にとっての序列原理に基づく外圧
・徳川幕府の支配体制は、藩=地域社会に統治権を与えと同時に、武力と経済力によって縛るという服属体制。幕府の締め付けに対する地域的課題共認があった
※江戸時代に貧困の圧力はどの程度作用していたのか?
・当時世界最大の都市江戸では、「宵越しの金は持たない」というほど安定した相互扶助システムがあった。また、農村も比較的豊かだったらしい。
■260余年といった長期に渡った江戸幕府の高い統合力の背景は何か?
①武力(幕藩体制=力の原理)
・最後の将軍慶喜に至るまで、他の大名に対し圧倒的な軍事力を有していた。
・武力を背景に婚姻政策や断絶改易政策によって縛る。
※因みに、「士農工商」は、実際には農工商に序列はなく、士と農工商の序列も曖昧で、生涯固定の“身分制度”のイメージは、後の時代に政策上の意図から捏造されたもののよう。
②経済力(武力も経済力に収束)
・“兵農分離→「武士」という消費階級”の確立。⇒「市場」「貨幣経済」の発達
・幕府主導の経済システムを構築し、諸藩を組み込み支配。
Ex.海外貿易はほぼ幕府が独占し、諸藩を排除。金山、銀山などの資源は「直轄」支配。
参勤交代や江戸城修復をさせるなどして経済力を削ぐ。
③規範教育~儒教の一派である朱子学を国学として確立(文治政治)
・統治者としての徳川幕府を正当化し、安定政権を確立するために、不安定な武士道に代わる序列規範を導入し、教育(≒染脳)した。
・幕府は“漢籍”(中国の書籍)を大量に輸入しており、儒教にみならず、農学、国際情勢、経済学(?)などの教育に力を入れた。
④庶民は安定した共同体
・・・ゆえに長期安定社会の実現が可能となった。
■「集団」の形態は武士階級とその他では異なる
・武士階級は「父系」、農工商は「母系」で、世継ぎは女性だった。
・「のれんわけ」制度(定年制度と正反対)、自治制度、相互扶助の長屋など、庶民は共同体で生活。
・基本的に所有権を認めない社会であり、富の集中による争いを抑える社会。
・精神的充足を重んじたゆえ私権欠乏が低く、結果「低消費社会」を実現。
・・・「もったいない」「質素倹約」「労働の尊厳」。
■教育制度の目的~初期は規範教育、後期は商業等の実学?
○幕府→昌平坂学問所(前身は林羅山の学問所)にて朱子学。
○藩校→江戸初期は儒教などの規範教育が中心だったが、後期より政治、経済中心になったよう。(なぜか?幕府からの経済的締め付けに対応するため?)
○寺小屋→全国に拡大したのは江戸後期。そこでの教育の中心は読み書き(手習い)、そろばんなどの実学。
・・・背景としては商業の発達という環境(外圧)変化があったらしい。(なぜか?)
また、寺小屋の先生は僧、医者、武士、豪農など地域の名士。月謝よりも感謝や評価が活力源のボランティア的存在。
■今後の追求の視点
国家統合のための規範教育としての国学(朱子学)の具体内容は?
幕府の外圧に適応することが「藩」という地域社会のみんな(武士、商人、農民、僧侶、神主、医者、庶民)の課題だったのでは?
よって、地域経済の発展も教育もみんなの課題では?
・・・市場拡大の仕組みが西洋の私権闘争発とは異なる?
・・・寺小屋は地元名士によりボランティア的に行われたのはそのため?
藩校が江戸後期において政治、経済を主に教えたのはなぜ?
庶民教育において「学問」(実学)は寺小屋が担っていたとして、主な「規範」教育は日々の生産の場(村落共同体、丁稚奉公等)あるいは、「若者組」か?・・・寺小屋では道徳や規範は教えなかったのか?
「教育」は「学問」と「規範」の両輪がバランスしてはじめて十全?
・・・現在、「学問」は塾に期待されており、家庭が教育機能を失ってしまったことで、「規範」は学校に期待されている?
以上を元に、引き続き追求していきたいと思います。
(kota)
投稿者 kota : 2007年10月19日 TweetList
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