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2007年10月21日

学校ってどうなってるの25~寺子屋のしくみ~

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 学校ってどうなってるの23~江戸の外圧と教育 に書かれている、~庶民教育において「学問」(実学)は寺小屋が担っていたとして、主な「規範」教育は日々の生産の場(村落共同体、丁稚奉公等)あるいは、「若者組」か?

 について調べてみました。
このブログの‘07/9/1にhiroakiさんが書かれていた、「江戸時代の教育事情~戦前まで残っていた若者組」 が参考になりました。 😀
 そのなかで出てきた、「若者組」と「寺子屋」。若者組が詳しく書かれていましたので、ここでは主に、「寺子屋」関連について調べて見ました。

 まず、江戸時代の学校は、武士階級の子弟のための藩校と、一般庶民のための寺子屋があるそうです。藩校、寺小屋の概要を「国民の歴史(西尾幹二氏:著)」にて調べてみました。以下概要を抜粋します。 😀

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 [藩校] :江戸時代中期までは、武士の学問は、平和な時代の余技、教養といった程度に考えられていたが、
中期以降は、現実の政治や経済の困難を克服するために教育を重んずる方向に各藩が傾いた。藩校は天明・享和期(1781~1804)に最も多く設けられた。それは、商品経済の発展によって武士階級全搬の財政難が深刻化し、綱紀粛正のためにも、現実の問題の解決のためにも、子弟の教育を重視するという方針に転じた。
 教育内容は、基本的には儒学中心である。為政者階級としての道徳的人間を形成することが目的であったが、少しずつ、経済実用の学を重んずる傾向に変わっていった。

 [寺小屋]:  普及したのは、藩校と同じく18世紀以降である。商業が盛んになり、交通が盛んになり、交通が進み、生産や商取引に契約書、帳面類、書簡などの必要が著しく生じた。
 幕府の側でも、さまざまな事柄を伝達するのに文字を用いて効果を上げようとした。諸法度、御触書、御高札といった法令を広く領民に知らせるためにも、広く庶民が読み書きの能力を高める傾向を歓迎した。そのため、最初は江戸、大阪といった大都市で設けられた寺小屋も幕末期には、天保年間(1830-1844年)頃からは、農村や漁村の隅々まで開かれるようになった。寺子屋で先生役を引き受けた師匠は、必ずしも特定の知識階級ではない。数の上では、庶民が最も多い。町年寄や隠居と呼ばれた人、庄屋や組頭にような農漁村の支配層、次いで多いのは、武士。また僧侶や神官も寺子屋を開いた。一番見逃すことが出来ないのは、寺子屋が庶民が自らの必要から生み出した自然発生体としての組織であって、幕府や藩の側の要請に基づくものではないことである。教育内容は、いわゆる「読み書き算盤」であった。教科書としては、「往来物」と呼ばれる文書が使われた。教訓、社会、語意、消息、地理、歴史、産業、理数などの各分野にわたっていた。男女共学が普通で、比率としては、全国平均では男100:女25、ただし、江戸では男100:女89、神田、日本橋、浅草などの庶民が群居するにぎやかな町、卸問屋や株式組合が盛んに活躍している地域では、男女比はほとんど同じだった。さらに江戸の寺子屋の師匠は、3人に1人が女性だった。商業活動は夫婦で行わなければならない社会の要請がこうした傾向を生み出したのであろう。

 若者組は、hiroakiさんが書かれているように、

若者組は、「若衆連」「若者組」などとよばれ、その起源は中世末期であるといわれている。若者組は村ごとに、あるいは村の小地域ごとに組織され、若者は地域共同体の行事等の集団生活を通して村民としての訓練をうけた。若者宿は、礼儀作法、村のしきたり、農・魚業等の知識・技術、手習い等を学習する場所であった。この若者の組織、守るべき事項等を規定したものが“若者条目”である。その内容は、目上の人に対する礼儀、風習の改善、賭博・飲酒・口論などの禁止、村是を守ることである。もし、この条目の事項を破った場合には、制裁がなされた。これらが、地域共同体の成員としての人間形成に大きな役割を果たしていたのである。     

   この若者組の構成員である若者たちは、昼間の農作業を終えると、“若衆宿”と呼ばれる集落内の寄宿舎に集まり、そこで寝食を共にする共同生活を送るのが習慣となっていたそうです。

 こうやって見ると、村落共同体の中での規範含めた教育の場は、学校単独というより、生産+若者宿+寺子屋というなかで、教育を捉えた方がよさそうです。
 生活を共にし、生産+解脱(祭り等)含めた日常生活の中での社会的役割分担を可能にする若者集団。このように、学校制度を超えて、生産と消費と解脱が一体の生活の中での教育。このような視点で勉強をとらえる必要があると思います。
 ただし、一方で、藩校や寺子屋が、普及したのは、「商業が盛んになり、交通が盛んになり、交通が進み・・・」とあるが、今までの、若者組では対応できないことが起こったのであろうか?ここは、残る疑問として、次に考えてみたいと思います。

投稿者 hoop200 : 2007年10月21日 List   

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